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第二節 各村の創始

(六) 白符村・宮歌村の境界争い

 『福山秘府・年歴部 巻之六』(松前廣長安永九年=一七八〇筆)のなかに、元文五年(一七四〇)の記事として「是歳、自(より)二正月一、東部宮歌邑(むら)、與(と)二白文邑(しらふむら)一論二其邑界一。」とあって宮歌村と白符村でその境界をめぐって争いのあったことを記録している。この論争の火種となったのは、その村の支配体制が異なっていたことによるものと考えられる。

 松前家(藩)の支配体制は、藩創立の初期に和人地・蝦夷地の制を定め、和人がアイヌ人の多く住む蝦夷地への進出を禁止し定められた和人地で生活するよう定め、アイヌ人もみだりに和人地に入りこんで和人と紛争が起らないようにしたもので、和人地は当初、東は亀田村から西は相沼内村(現熊石町)までを区轄したが、のち和人の定着増加によって東は石崎村黒岩(函館市)から西は熊石村に拡大されている。藩及び家臣の知行制度については、第三編近世の福島の第一章第七節で詳しく書いたのでここでは割愛するが、和人地では藩主の直領地であることを原則として、本税・小物成(付加税)共に藩へ納入することを原則としていた。その上で藩主は、一族や功績のあった家臣の藩に対する貢献を賞し、これら直領地の支配を任せてその家計の一助に資するという方法をとった。それを拝領する家臣のことを支配所持(しはいしょもち)あるいは給所持(きゅうしょもち)といった。







白符村、宮歌村村界図




 当時は同じ福島町内でも福島村(付属の三本木村、山崎村、一ノ渡村、小谷石村を含む)と吉岡村(貝取澗村を含む)は藩の直支配地で、礼髭(れいひげ)村、宮歌村、白符村は家臣の支配給所であった。礼髭村の支配主は村上系松前家で、村上系とは、松前氏第七世藩主公廣(きんひろ)の四男廣ただが、大館(松前)館主村上三河守政儀家の名跡を継いで村上系松前氏を称したもので、第十一世藩主邦廣の五男廣長(『福山秘府』全六十巻の筆者)が同家に養子となった名家であり、そのため給所として礼髭村を拝領したものである。白符村は同じく松前氏の一門である河野系松前氏の給所であった。河野系とは、松前氏第五世藩主慶(よし)廣の六男景廣が、長禄元年(一四五七)のコシャマインの乱の際戦死を遂げた箱館館主河野加賀右衞 門尉(じょう)政通家の名跡を名乗り、河野系松前氏と称したものである。景廣は『新羅之記録』を著し、家老として松前藩のために貢献し、この白符のほか、木古内村、北村(上ノ国町)も支配所として拝領している。

 宮歌村の場合はこれらと異なり、松前氏より出自した徳川幕府の旗本に対する給地である。この幕臣松前氏は、松前氏第七世藩主公廣の第三子松前八左衞 門泰(やす)廣が、寛永十八年(一六四一)江戸に分家したもので、翌十九年将軍家光から切米千俵を賜わって旗本小姓組となり、のち寄合(よりあい)席の二千石の大身旗本となり、本家の松前氏に指導助言していた。しかし、寛文九年(一六六九)に日高シャグシャインの乱が発生した際、時の藩主松前氏第十世矩廣は僅かに十一歳で到底軍の指揮をとることができないため、幕府は特に矩(のり)廣の従祖父松前泰廣に命じ、鎮夷の指揮をとらせた。この蝦夷乱は無事平穏となり泰廣は江戸に帰ったが、幕府はこの泰廣の功を賞して五百石を加増し、松前氏はこの同族泰廣に対し、寛永十二年(一六三五)宮歌村を給地として与え、のち宮歌村の枝村として寛永十七年大茂内村(乙部町)九艘川村(江差町)二村も与えている。他村給地は藩重臣に贈られたが、宮歌村は松前氏が特に、同族で幕府の旗本である松前八左衞 門に贈った地である、という誇りもあり、白符村との間がしっくり行かなかった。

 さらに両村間の境界も漠然(ばくぜん)としていて定かでなく、宮歌村は、西は貝取澗境の鍋島から澗内の沢を経て根祭岬までが宮歌村持であるといい、白符村は、澗内の沢から根祭岬まで宮歌の人は一人も住んでおらず、この地域に住み利用しているのは白符村の人達である、従って白符村領の地域であり、白符村は西は澗内の川から東は福島村境の腰掛岩までであるとして譲らず、両者の間の紛争は絶えなかった。

 たまたま元文四年(一七三九)澗内川付近の昆布干場のことで争となり、白符村が知行主松前内記廣候(ないきひろとき)を通 じて松前藩寺社町奉行所に訴(うった)え出、宮歌村も江戸旗本二千石寄合席松前八兵衞 端廣の現地代理人蠣崎三彌(かきざきさんや)を代理人として受けて立ったが、白符村から届け出た申立書は次のようなものである。


































 
白符村百姓口上書

當村之由緒御尋ニ付申上候御事
 
當村之根元ハ津軽ねつこ村馬之助と申者上山中べそり与申所へむかし相渡リ居候所、御殿様御尋御座候而御城下あら町ニ屋舗被下置しバらくはいかい仕候。然共妻子養可申様も無御座在郷願上候得ハ何方なりとも勝手次第ニハ候得共、歌ハ手近ク候間うた内に居候様被仰付、依之唯今之処鮑多ク、夏ハ鱒秋ハ鮭沢山ニ御座候故、ねまつり江罷越居申候。其砌ハしとまい迄家一軒も無御座候所、其後段々身過能商事自由仕候故、人共追々参候而家数ニ罷成候ニ付、頭分之者願上候得ハ 御殿様則馬之助ニ肝入被仰付候。其時節ハ歌ニ夷弐間御座候
鮭引網之儀者歌の御百姓打寄打込ミ引申候。村吟味ハ肝役之者相勤申候。此まない川ノハ馬之助ニ被下置支配仕候、両川共ニ魚御座候よし申傳候。

村境の儀ハどれからどれ与申被仰付茂なし境の御制札茂無御座、諸商賣仕候茂歌の御百姓入込たがいニ心能渡世仕候。五六拾年以來肝入弥五八其後弥左衞 門代迄ハ福島宮の歌よりもいろんも無之候得共、三拾年以来弥源次代のころより宮の歌ねまつり迄宮の歌領之よし申候而商賣事ニ付普請ニ付度々我が侭いろん仕折節ハ、たゝき合申躰之事茂御座候。

夫故其砌ハ御屋舗江申上候得ハ、何れ之村所ニ而茂 御公儀御定提与申も無と一面 之事候間村々濱中ニ立候ハ、崎から崎まて見渡し候所、切ニ而昆布鱒鯡取流寄もの之支配茂仕候様ニと被仰付候。此度宮の歌白符村三分弐河のかたの領分と申いろん仕こんぶ干候事茂罷成不申困窮之百姓大難儀仕候間、前々之通 崎より崎迄と被仰付被下置候様ニと偏ニ奉願上候。
白符村ハ元來惣名ねまつり与申候処、しらふの御鷹出候より白符村と 御殿様御改被遊候、則御塒茂御座候。

まないの沢ニ宮の歌者之畑一枚茂無之候。昔より當村の畑地斗御座候銘々畑地能存罷在候。右之趣者所々年寄の者とも昔よりの由緒承り伝へ罷有候故仍而。

 御尋有躰申上候。 以上 
 元文四年己未年八月 
  
白符村小使







肝 入   



伊四郎  判

惣年寄

惣百姓

弥左衞門 判
(『白符・宮歌両村舊記』北海道大学附属図書館所蔵)


この訴書によれば、白符村の草分は馬之助で、澗内の沢は殿様から馬之助に下されたものであり、この川には鮭(さけ)や鱒(ます)も多く入り、またこの地域は昆布干場としても重要な土地である。しかし宮歌村はこの地域は宮歌村の境界内であるといい、いつも論争が絶えず遂には叮(たた)き合いになることもあるので、何とかこの境界を明らかにして問題を解決して欲しい、というものであった。これについて知行主の松前内記は口上之覚を提出し、白符村百姓の苦境を次のように述べている。






















 
 御役所江申達候

 口上之覚
 
宮の歌村白符村江数度境論致打節私方江申入候得共可申付様茂無御座其分々ニ仕有候処別 而今年度々宮歌より申募り白符村まない沢ねまつりの濱迄昆布壱本も干させ申間舗よし宮の歌百姓申ニ而當夏白符前濱ニ干置候こんぶ不残宮の歌ノ百姓海へなげ捨申候由夫より白符百姓共濱江こんぶ干候事相成不申沢ノ入川端の籔ヲかり其所迄かり立し昆布せおい候而山ニ而干申候百姓共困窮之上當夏者別 而難儀仕候仍之私方如何様共境相定呉候様ニ直遍申入候得共私自分ニ而可申付様無御座候故兎角申上御指圖次第可申付候旨申渡之處村之者共尤ニ存御役所より御見分被成下村境被仰付候ハ、難有奉存旨之儀ニ御座候依而百姓とも覚書ニ村々絵圖相添差出し申候間御役人方御見分之上如何様共百姓難儀不仕様ニ被仰付被下置候様御評儀被成可被下候若子細御尋御座候ハ、百姓共可上候肝入始年寄不残私方ニ詰居候間何時ニ而も御尋之節御役所江差出可申候 以上
 未ノ八月  
   
松前 内記 

廣 候
 
南 條 安右衞門  殿

新井田 五郎左衞門 殿
  
 (『白符・宮歌両村舊記』北海道大学附属図書館所蔵)


この口上之覚では、宮歌の住民は澗内川周辺で干した昆布を海中に捨てたり、暴行を働いたりで、白符の住民は非常に苦しい立場にあるので何とか一日でも早く公平な裁きをして欲しいと、知行主の立場で白符村住民を弁護しながら町奉行に要望している。 この訴えを受けて立つ形となった宮歌村は、同年九月この澗内沢の濱場について次の通 り反論している。














































 
元文四年未ノ九月

  當村間内之沢濱場下書之扣
  
  
年 寄

小 使

肝いり

太次兵衞

彦右衞門

喜右衞門
  乍恐以書附申上候境論之御事  
宮ノ歌村草分ケ百姓津軽鯵ヶ沢出萬助、三吉、弥四郎、重次郎、太右衞 門、与市郎右之者共間内へ落附、一両年住居仕間内之沢切分ヶ畑作仕附渡世送り候得共、海辺船附悪敷ク御座候故、當所江相廻り其後ハ家数四拾軒余ニ罷成其節之小頭相勤申候者太右衞 門と申者相勤メ申候。其後ハ彦右衞門と申者肝役相勤申候。其節茂間内ニ畑作仕付渡世送り申候。海川共曵網仕候節村吟味當村重次郎網子者共當村百姓中引網仕候。
夷蝦発起之節 松前八左衞門様御下り之節間内根祭り崎まて御普請仕候。
御巡見様御通之節茂古例之通根祭り崎迄道御普請仕候。
御公儀様道法間尺御改御奉行所御通之節御帳箱請取渡之御人足上ハ鍋嶋、下境ハ根祭り崎ニ而請取渡シ仕候。
先年間内へ北国乘捨テ船打上ケ申候、其節茂當村支配仕候。

間内百五間近年白符村ニ而遣申候得共、其分ニ仕置候処ニ其外ニ當歳百六拾八間昆布干場普請仕置候処ニ、白符村百姓中参候而干置申候。

昆布たくり置夏中白符村之百姓中我侭ニ遣申候。依之當村之百姓中昆布干場無御座候故難義仕候。此以後先年
  之通ニ以御慈悲被仰付被下置候ハ、有難可奉存候。 以上。
 
元文四歳

 未ノ九月
  
  
宮ノ歌村

肝いり

年 寄

小 使



喜右衞門

太次兵衞

彦右衞門
  蠣崎 時右衞門 様  
 (『宮歌村古文書』宮歌八幡神社所蔵)


 これによると、宮歌村の草分の人たちはまず澗内に落ち付き、二~三年後に船付きのよい宮歌村に移ったが、巡見使が来た際の道普請や人足廻しも根祭岬まで行っており、宮歌村であることには間違いはない。澗内のうち百五間(百九〇メートル余)は白符村に使用させていたが、その外に宮歌村が造成した百六十八間(三〇四メートル)の昆布干場を白符村は断(ことわり)もなく勝手に使用している。しかしこの地域はあくまでも宮歌村の地所であると、村肝(きもいり)(名主)、年寄、小使の村方三役の連書で反論している。

 この境界論争は町奉行所で二年に亘(わた)って取り調べが行われ、両村役は知行主宅やその代理人宅に泊り込んで争ったが、何れも確乎たる証拠がないため決め手がなく、これを強引に裁決すれば何れかの知行主に傷が付くため、二年に亘る訴訟の割には極めて抽象的な裁決で次のように決定された。

















元文五庚申年二月廿三日

宮の歌百姓白符村百姓と村境之致論ヲ去年秋中白符百姓共内記方へ申立候ニ付、無拠右境論申立候書付ニ繪図相添八月中町御役所江差出候處、當正月中此間迄宮の歌白符両村之肝入年寄共度々召出御吟味之處、両村之百姓とも申分さかひの品申傳斗ニ而両方共ニ急度證據与申茂無之ニ付今日被仰出候者、惣而御領給所共ニ古來より何之村ニ而茂境与申儀ハ無之一圓之事ニ候間、今度宮之歌白符境も難被仰付候間、向後両村之百姓共諸商賣相互ニ申合不論様ニ家業いたし候様ニと町御奉行所ニ而両村肝入共江申渡候ニ付拙者方へ同役被申渡候間右之趣記申候
 松前 内記
 廣候 役中
(『白符・宮歌両村舊記』北海道大学附属図書館所蔵)


 つまり、蝦夷地全体が松前氏の領地であって村境等も確たる取り決めがないのであるから、両村の百姓共は協調し合って仲睦ましく助け合い、境論などは持ち込まないようにとの極めて曖昧な形での和解要請であったと考えられるが、その後の動向からすると、根祭岬から澗内川までの間は宮歌村領と見るのが妥当のように思われる。それは同元文五年七月に次のように、白符村から「借請申一札證文之事」が出されていることによる。































  借請申一札證文之事
此度當村前濱ニ而昆布干場手廻し候事故右昆布之儀茂干場手取候事も不相成、依而其御村御領分間内濱此度借り請申度旨村中一同相談之上御願申上候処、御聞済被成下右ニ付百姓中一同之凌方ニ相成安堵仕難有仕合ニ奉存候。依是以後境論彼是違乱之筋決而申間敷後日爲念之濱借請一札證文差出し、依而如件
  時元文五庚申年(五)七月十七日 
 白符村 
 
肝いり役

年寄 役

弥左衞門 印

平  助 印
宮之歌村 
 御肝いり役 
  石岡 利右衞門 様 
(『宮歌村古文書』宮歌八幡神社所蔵)




 これによって二年間に亘る両村の村境紛争は解決したが、『宮歌村古文書』によれば、この紛争はのちの時代まで尾を引き、天明七年(一七八七)、文久三年(一八六三)、慶応二年(一八六六)、慶応四年(一八六八)にまで及んでいる。