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第一節 中世の産業(鮭と昆布、鯡)

  中世の蝦夷地の物産としては鮭と昆布に代表される。室町時代に全国の有名商品を紹介した本に、『庭訓往来(ていくんおうらい)』がある。このなかで蝦夷地の干鮭とウンガ(宇賀―函館市)の昆布がのっている。中世年代の蝦夷地では、どの河川でも秋には大量 の鮭が遡(そ)上し、手づかみでも獲れる状況であった。中世道南地方に定着した漁民達も、この鮭を捕獲して、天然乾燥させ、これを交易に出し生活していた。それはこの時代塩が高価で魚の加工等に用いられなかったからである。

 鮭は道南地方では汐泊川(函館市石崎)、茂辺地川(上磯町字茂辺地)、木古内川(木古内町)、知内川(知内町)、福島川(福島町)、及部川(松前町)、石崎川、天ノ川(上ノ国町)、利別 川(瀬棚町)、遊楽部川(八雲町)等には無数の鮭が遡上した。この捕獲は、和人は小網を用いて採捕し、原住蝦夷人は、河中に入ってマレックという棒の先に鈎を付けた物を用い、この棒を河中に刺し、遡上する鮭がこれに当ると鈎が反転して鮭が獲れるという方法が用いられた。

 収獲した鮭は、和人の場合内臓を除去して納屋の竿にかけ天然乾燥の一本干とし、蝦夷の場合は同じく内臓を除去し、乾燥を良くするため皮に×の傷を付けて干し、乾燥を早めるようにした。従って和人と蝦夷とでは製法が異なり、和人の製品は干魚と書いてカラサケと読み、蝦夷の製品はアタツと称し、いずれも交易の主要物産であった。道南地方に点在した各館の立地を見ても、鮭の多く遡(のぼ)る川の河口に築設されているものが多い。これは先住蝦夷人に混住する形で和人が定着し、同じ河川で鮭を捕獲していたが、その数が増すと、和人の権益を守るために、河口に館を構え、この鮭捕獲を産業基盤の拡張の手段としていたものと考えられる。この例は蠣崎氏が天ノ川の右岸流域に花沢・勝山の両館を構えており、コシャマイン軍との戦いに勝利を収めた後、この川を挾んだ河北の地に洲崎館を構え、蝦夷の産業基盤である鮭捕獲場を浸食して行ったと考えられる。

 一方福島の町中を流れる福島川についても大量の鮭が遡上したようで、『常磐井家福島沿革史』の天文二十一年(一五五二)の項に、





上ノ国城主南條越中守広継ノ室逆意ヲ企テ蠣崎季広 (四世領主) ノ近習ト謀り、 宮内少輔舜(きよ)広ノ次男万五郎元広ヲ鴆毒(ちんどく)(鳥の毒) ヲ以テ之ヲ殺ス、 越中ノ室生害セラレ、 丸山某斬罪トナル。 此時長泉寺ニ内室ノ尊体ヲ葬ル、 高獄院殿玉簾貞深大姉ト号ス、 オリカナイ川ヲ以テ長泉寺領ト定ム。 其後三十三回忌ノ供養ヲ行フマテ魚川ニ不入




とあって南條広継妻は四世領主季広の長女であったが、謀反が顕われ遂に自殺し、その遺骸を長泉寺(法界寺の前名)に葬ったところ、川に鮭が獲れなくなったというが、前記沿革史では天正十三年(一五八五)以降鮭は再び福島川に遡上するようになったといっている。

 また、今一つの主要生産物である昆布については、前述したように『庭訓往来』(元弘年間―一三三一~三玄恵著)に宇賀昆布が全国的名産品として紹介されている。宇賀とは現在の函館市宇賀浦町、志海苔町(志濃里)付近である。この地域は今も全国的に見ても最良の元昆布の生産地で、このほか南茅部付近で採れるものを浜の内と称した。道南地方のなかでも日本海沿岸から津軽海峡中の函館市以西に生産されるものは、細目昆布で、宇賀地方の物より品質は悪いとされ、中世にはあまり交易には用いられなかったといわれる。

 室町時代にはこの宇賀昆布が多く若狭小浜に搬ばれ、小浜で加工され、若狭昆布として売り出され令名を博し、その伝統は今も関西地方に残されている。また、宇須岸(函館市の古名)は中世この昆布で栄え、毎年三回若狭から商船が昆布の積取に来ており、また、海峡を越えた十三湖には夷船、京船が多く集まり盛んに交易が行われ、ここでの交易の主役は昆布だったと推定される。

 昭和四十三年七月函館市志海苔町の志濃里館直下の国道拡幅工事中、土中から越前古窯(こよう)と能登の珠洲窯(すずがま)と思われる三個の大甕(かめ)に入った大量 の古銭が発見された。その古銭はのち函館市立博物館で計数調査の結果、三十五万枚の多きに達したが、この古銭は、我が国で製造通 用した皇朝十二文銭は僅かに十五枚よりなく、他は漢や明からの渡来銭であった。室町時代といえば通 用銭は永楽通宝であって、その通用は一四二一年(応永二十八年)であるが、この発掘古銭の下限は、洪武通 宝であるので、永楽通宝通用以前に埋蔵されたものであり、またこの古銭は多分に北陸地方とかかわりを持っていたことが考えられ、昆布による蓄財金ではないかという説もある。

 ニシンは和名を「かど」「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字を当てていたが、特に蝦夷地では「鯡 」の俗字が用いられた。福島町においては、文安二年(一四四五)津軽根っ子村(青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村)の馬之助なるものが白符村に来て、網でニシンを獲ったのがニシン漁業の始まりであるとの言い伝えがあり、『北海道漁業史稿』にもこのことが掲載されている。しかし、『白符村沿革』によれば、馬之助の渡航は近世初頭の松前藩政成立後のことであって、伝説のような古さのものではない。

 中世の年代ニシンはあまり交易品としては重視されなかった。それはこの時代は津軽、秋田地方でもニシンが多く獲れ、わざわざ蝦夷地から生積する必要がなく、また、大量 に外割や身欠ニシンを加工、産出するだけの人口も居住していなかったので、せいぜい自家用食料として保存する程度であった。