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第一節 安藤 (東) 氏の流入

 中世津軽地方の領主として活躍した安藤(東)氏は、長髓彦(ながすねひこ)の末裔(まつえい)といわれ、大和朝廷に反抗して戦い、敗れて東奥津軽外ケ浜安東浦(東津軽郡)に配流されたことから、安東氏のちには安藤氏と称した。その後安藤氏は津軽平野の中心の藤崎(南津軽郡)を経て、北津軽十三湖の湖畔に福島城を築き、ここを中心に発展し、北条幕府の蝦夷管領(かんれい)の職を得、ますます安藤氏の基礎を固めた。安藤氏発展の基礎となったのは、十三湖で海水、淡水の交錯する天然の良港であったので、京船(北国地方の船)、夷船(蝦夷地の船)が集まる北方唯一の交易場で、『十三往来』では








滄海漫々として異国船京船安東水軍船集〆艫(とも)先を並調舳(とも)湊に市を成す。



『市浦村史資料編・中巻』



と、その盛況を保っていた。

 十四世紀に入り福島城の安藤氏を中心として、東に外ケ浜(東津軽郡)の下ノ国安藤氏、西に西ケ浜(鰺ケ沢付近から秋田付近まで)の上ノ国安藤氏が並立(へいりつ)し、互いに勢力を争い、同世紀の中頃には家督問題や南北朝の抗争を背影に、五十年に亘(わた)る安藤氏内の戦乱があり、北条幕府がこれに介入して、その弱体を露呈し、幕府の倒壊を早めたといわれている。

 一方永享十一年(一四三九)南部氏は糠部五郡(下北・上北地方)を賜わったが、ここを前進基地として津軽に進出した。さらに十三湖福島城主下国安日(あべ)盛季に南部大膳太夫義政は息女を嫁(とつ)がせ、同十二年養父として福島城に乗り込み、城を攻撃し嘉吉二年攻め落とした。戦いに敗れた安藤氏は同地の支城唐川城に移って防戦、さらに柴崎館(北津軽郡小泊村)に移り、ここから蝦夷地に向け渡海した。

『新羅之記録・上巻』によれば、








同三年十二月十日狄(てき)の嶋に北(にげ)渡らんと欲するの処、 冬天たれば順風吹かず難儀に及べり。 ここに道明法師天を仰ぎ地に俯(ふ)し、 肝胆を砕くに、 忽(たちま)ち天の加護有り巽風(たつみ)(東南) 吹いて出船す。 跡より軍兵追い来れども船洋沖に浮ぶに依て力及ばず引き退く。 盛季虎尾を踏むの難を遁(のが)れて渡海す。 彼の道明法師鋳像の観世音大菩薩を負ひ奉り伴(とも)に列(つら)なれり。 軍陣の中に怖畏し彼の観音の力を念ぜば衆怨悉(ことごと)く退散するの誓約顕われて、 此島の岸に著す。

是偏(ひとえ)に永善坊道明法師の懇祈を致すの謂(いわれ)なり。 此観世音大菩薩の尊像は今に永善坊に在す。 其時より十二月十日の巽風を道明風と言ふなり。




と盛季の蝦夷地渡航の状況を記しているが、この渡航は嘉吉三年としているのに異論もある。『満済准皇日記』では、永享四年(一四三二)十月二十一日の項のなかで、「奥の下国南部と弓矢事に付いて下国弓矢に取負、えぞが島へ没落し」足利幕府が和睦をしようとしたが、南部氏は不承知であるとしているので、嘉吉三年より十三年早い永享四年に津軽から敗走したと考えられる。また安藤盛季はこの時期すでに没しているので、渡航した安藤氏は盛季の子康季と、孫の義季ではないかと考えられる。

 松前にあって兵力を貯えていた安藤康季は、文安三年(一四四六)失地を回復する軍を進めるため津軽に出兵し、鰺ケ沢(西津軽郡)付近で戦闘を交えていたが陣没し、孫の義季は享徳二年(一四五三)大浦郷狼倉(おいのくら)(岩木山東麓)で南部軍と交戦して戦死し、遂に安藤(東)宗家は断絶した。

 このころ南部氏に捕えられ糠部に在った外ケ浜の下国安東太政季は、南部氏の手を逃れて大畑(青森県下北郡)に至り、ここで松前氏の初祖となった武田若狭守信広、松前大館の副将となった相原周防守政胤、箱館主となった河野加賀右衞 門尉政道(みち)等と合流して享徳三年(一四五四)八月蝦夷地に渡航したが、この下国政季は茂別 (上磯町字茂辺地)に館を構えていたと思われる。

 上之国安東氏の西関安東二郎廉季(かど)(鹿(かの)季)の孫に当る秋田の領主秋田城介安日堯(たか)季は、この政季の報を聴き、安藤宗家存立のため河北の地を与えることを約し、三年後の康正二年(一四五六)政季は秋田桧山(能代地方)にいたり、ここに館を築き、桧山城主となり宗家を相続し、蝦夷地の管轄権はそのまま握った。そして茂別 館には弟の下国家政を置き、松前大館には同族下国山城守定季を置いて、道南に点在する十二の館主を管轄させていた。