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第四節 村民の義務

(三) 各村への賦役

 松前藩政時代各村の村民は、多くの税役を納めていたほか、労力を提供する賦役も多く課役されていた。徳川幕府は各街道の整備と併せ、公的物資の輸送や人の往来に必要な馬・人員を供出させる助郷制度を確定したが、これは幕府が発行する逓符所持者から連絡を受けた場合、必要な人馬をその村の責任で供出するというもので、それに働く人は役としての労力奉仕を強要されるというもので、主要街道はこの利用者も多く、それらの村の住民と、また、近くの村にまで助役を求められるなど、住民の迷惑ははなはだしいものがあり、その方法は蝦夷地にも及んでいる。

 蝦夷地内和人地は、松前を中心として東は亀田(のちには石崎村)、西は相沼内(のち熊石村)まで、それぞれ一二〇キロメートル間に街道が展開していたので、各村はその村の区域内街道の整備の責任を負わされていたので、その道普請と管理は村民の大きな負担であった。先ず川に架かる橋のかけ替、修理、護岸等はすべて村民の拠金によらねばならないし、街道面 の補修も怠りなく行うなど、村役にとっては厄介な問題であった。とくに福島村から市ノ渡りの知内川の渡しを経、栗の木椹(たえ)板(湯の里町堺の坂)まで約一六キロメートル間の街道には、兵舞道を通 る四十八瀬の徒渉川があり、さらに急峻な茶屋峠があり、この頂上には御救小屋と称する茶屋もあって、この間の道路管理は容易ではなかった。

 各村に課せられる賦役の一つに御用物、御用状の村継送りがあり、この村継も村役の頭痛の種であった。『宮歌村文書』中の嘉永元年(一八四八)の『御用物御用状継送扣留』において常に隣村との間で連絡を取り合って、遺漏のないように心掛けている。










兼而先觸之御普請役様方長崎俵物扱昨日尚刻付之おしらせ着ニ相成候、今當村へ御廻り候趣夜中とは申乍ら依之明九日當村之(江)御廻右ニ相成候間明日は在筋順次下ニ相成候間此段案内聢(じょう)と御しらせ可申上候 以上



九月八日



白符村



村役人



 しかし、このような慎重な御用物の取扱いをしながらも、送達が遲れてその原因糾明を迫られるということもあった。これら藩の御用状で急を要するものは刻付帳が添付されていて、何枚が何刻に受け、これを何刻に隣村に渡したことを記入して責任の所在を明らかにしている。前同史料によれば、










右御用状昨十八日七ッ時過(午後四時過)白符村至来仕候処只今御同人様御帰り如何之訳ニ而遅滞いたし候御預御咄ニ候得共前書之訳柄申上候処、何れ之村ニ而滞候哉何日之何ッ頃相達何ッ頃継立候段於村々之添書いたし早々御役所迄差出様被仰付如期御座候 已上



九月十九日



福嶋村



御名主



白符村



先々



御名主衆中





というもので、御用状の送達が遅れ、その手紙を書いた本人が福島に来るという状況で、その御用状が遅れた原因を調査して藩に報告することを求めているという状況で、村役は常に逓送人の確保と、結果 の確認に頭を悩ましていた。

 また、街道の人馬継立については、宿場を持つ福島、吉岡の両村が中間起点であった。福島村名主の住吉屋辰右衛門、同吉岡村名主船谷久右衛門は共に旅籠(はたご)を経営しているので、その采配はほとんどこの両者が行っていた。

 このほか、村役とし仲間(ちゅうげん)料がある。これは松前城内の雑事に従事する仲間を、初期にはその村に割当された仲間を、村が若者を選んで、城中に供出していたが、中期以降は仲間料として各村からその賃金を支払う金納と変った。この金額は村方役のなかから支払っていたが、宮歌村のみは江戸旗本松前八兵衛家の支配地であったので、宮歌村から一人、枝村の江差九艘川村と大茂内村(乙部町字栄浜)の二村で一人の計二人を、毎年春に江戸に送り、前年江戸に出ていた仲間が帰村した。この往復旅費はこれらの村の負担であった。