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第二節 社寺の創建

 中世の時代、修験者や遊行僧によって創建された社寺は、住民の屋敷神も、村中の中心となった氏神に併殿もしくは摂社となって祀られるようになり、各村の氏神社としての威厳を持つようになった。道南地方の口碑のなかでは、松前藩の政策として、武の神様としての八幡信仰の八幡神社(社)は庶民には関係ないとして、伊勢皇大神宮の分霊を祀る神明社(のちの大神宮)の創建を奨励したといわれている。これは庶民の本当の意味での生活を守ってくれる神様だという、認識のもとに進められた藩の政策である。

 福島町の場合、福島村、白符村の氏神は神明社で、明治以降社名を大神宮と改め、吉岡村、礼髭村、宮歌村は八幡神社(社)であった。特に福島村では、中世の時代折加内川(福島川)の河岸に造立された月の崎(月崎)明神社があり、この社を中心とした摂社群があったが、これは近世に入って福島村神明社が創建されて、村の氏神化してくると川濯(かわそ)神社(川裾(かわすそ)神社)等が月の崎明神社から神明社境内地に移建されるなど、中心が神明社に移っている。しかし、神明社が方六尺の本殿と小規模の拝殿であったのに対し、月の崎明神社は間口五間、奥行八間三尺の威風堂々の建物であったことからすれば、村内の氏子が月の崎明神社に多かったと思われる。

 一方仏教は中世末期に建立された福島村の淨土宗法界寺が、一村一宗的立場で檀徒の上に君臨し、吉岡村は淨土宗広念庵があって、近世中期には寺号公称を得て海福寺となり、また、専称寺は松前専念寺の掛所となり、のち真宗東本願寺派の寺として公称されて行く。

 これらの村々には淨土宗、真宗以外の檀徒もあったが、拠るべき寺がなく、松前城下の寺院の檀徒となった真言宗、曹洞宗、日蓮宗の檀信徒も多い。以下に町内各社寺の沿革を記す。













福島町字福島(鏡山) 
 
旧郷社



福島大神宮

(旧福島村神明社)


 一祭神 天照皇大御神

 創立年代は不詳といわれるが、当初はカムイナイという小沢にあったという説もある。福島村中の人達が慶安二年(一六四九)九月十六日、松前神明社から小神鏡を奉遷して一社を創立し、笹井氏(のちの常磐井氏)が代々神職として奉仕した。文化四年(一八〇七)正月元日朝社殿を焼失し、本殿及び伝来の古文書を失い、同年六月現在の位 置に社殿を再建し、翌文化五年八月二十日松前神明社から古神鏡を遷して御神体としている。明治四年十一月村社に列せられ、福島大神宮と改称、同九年十一月郷社に列せられ、さらに同十一年社殿の再築を行っている。











摂 社



福島町字福島(稲荷山)

 
 
旧無格社



稲荷神社


  祭神 宇迦之御魂命

  明暦二年(一六五六)八月中に村中の人達で建立したといわれる。御神体は万治二年(一六五九)戸門長作の寄進。










福島町字福島(稲荷山)  
 
旧無格社



川濯神社


祭神 伊邪那岐命

   伊邪那美命

   瀬織津姫命

 明応元年(一四九二)月の崎観音堂(のち月崎神社)の摂社として建立され同年五月十六日女石神海中より上り、これを御神体としたといわれる。近世期には十羅女(とらめ)堂ともいい、女性の信仰深く、古来女講中によって例大祭が執行されてきた。明治にいたり現在地に遷社。











福島町字月崎  
 
旧無格社



月崎神社


  祭神 月夜見命

  この神社は福島神明社が創立されるまで福島村の氏神で、その沿革も古い。草創は不明であるが、明応元年(一四九二)野火のため春日作といわれる御神像が火を放って飛び失せたので、同年再建したといわれている。当初は月ノ崎観音堂、月ノ崎大明社ともいわれた。萬治三年(一六六〇)には社殿が整ったと思われ、下図のような棟札が残されている。

 その後、文化三年八月(一八〇六)従来の観音堂を大明神社と改める。

 なお現存する石鳥居の刻銘には安政二年(一八五五)乙卯四月日、願主花田伝七とある。この社は八幡社とも呼ばれていた。











合殿社



福島町字月崎

 
 
旧無格社



羽黒神社


  祭神 木花咲夜姫命

  俗に山の神といわれる神様で、元和九年(一六二三)今井佐兵衞が願主となって建立された。











合殿社



福島町字月崎

 
 
旧無格社



馬形神社


  祭神 大御食都神

 寛文二年(一六六二)願主福士学右衞門によって創建され、元文六年(寛保元-一七四一)福士小八郎再建。











摂社



福島町字月崎

 
 
旧無格社



八雲神社


  祭神 須佐男命

 永禄二年(一五五九)戸門治兵衞を願主として創建され毘沙門社と称したが、のち松前藩家老蠣崎蔵人願主となり、明暦二年(一六五六)再建され、八雲神社となる。















福島町字塩釜(釜谷)

 
 
旧無格社



釜谷神社


  祭神 猿田彦大神

 安永元年(一七七二)釜谷村中建立。













境内摂社

 
 
旧無格社



稲荷神社


  祭神 宇迦御魂命

 文政三年(一八二〇)創立。










福島町字塩釜(釜谷) 
 
無格社



丸山神社


 祭神 大己貴命

    少彦名命

 文政四年(一八二一)開山願主吉兵衞、桶屋佐太郎の両人である。このほか修験者開山による薬師堂もあった。










福島町字浦和(濱端)  
 
無格社



稲荷神社


  祭神 宇迦之御魂命 

  文政十年(一八二七)漁業者中造立。










福島町字岩部(ツヅラ沢)  
 
無格社



稲荷神社


 祭神 宇迦之御魂命

 文政十年(一八二七)出漁者中造立。










福島町字岩部(シラツカリ)  
 
無格社



稲荷神社

(白鹿松(しらつかり)神社ともいう)

 寛政十一年(一七九九)造立、慶応三年(一八六七)御神位奉安、願主瀧屋小八、石川忠左衞 門、花田太次兵衞、山本屋初蔵、金屋貞三郎其外出稼浜総中。










福島町字三岳(館の山)  
 
無格社



熊野神社


 祭神 伊邪那美命

 女神(山の神、農業の神)、天保七年(一八三六)渋谷寅之丞ならびに杣子中が建立した。










福島町字千軒(一の渡)  
 
無格社



千軒神社

(一の渡神社ともいう)


 祭神 大山祗命金山彦命

    岡象女命

 寛永元年(一六二四)一の渡住民佐藤甚左衞門建立、千軒大権現社、千軒山三社大明神ともいう。享和二年(一八〇二)松右衞 門、金十郎、六助、長作の四人で再建立した。また、『馬形社佐々木家日記』によれば、白符神明社にあった三社大権現の三体の御神像のうちの一体を文化十二年(一八一五)千軒神社の御神体として奉遷したという記録がある。










福島町字白符(日影山)  
 
旧村社



白符大神宮

(白符神明社)


 祭神 天照皇大神

 寛文六年(一六六六)松前藩主一族松前美作(みまさかの)守景広(河野系松前家祖)が、自分の采領地である白符に一社を創立したものである。当初は大日堂と呼ばれ、のち神明社となり、明治にいたって大神宮となった。富山家代々がその社司を勤めている。










合殿四社  
  恵比須神社

 祭神 事代主命

 建立年代不明、享保二年(一七一七)本社に合殿。







 


千軒神社


 祭神 金山彦神

 建立年代不明、文化十一年(一八一四)本社に合殿。







 


熱田神社


 祭神 日本武(やまとたける)命

 建立年代不明、明治四年本社に合殿。







 


鹿島神社


 祭神 武甕槌(たけいかつち)神

 建立年代不明、明治四年本社に合殿。










福島町字白符(野々上)  
 
旧無格社



稲荷神社


 祭神 宇迦之魂命

 宝暦八年(一七五八)村中一統建立。










福島町字白符  
 
旧無格社



荒神神社


 祭神 素盞鳴(すさのお)命

 享保元年(一七一六)村中一統建立。










福島町字宮歌  
 
旧村社



宮歌八幡神社


 祭神 譽田別(ほんだわけ)命

 明暦元年(一六五五)知行主幕府旗本松前八左衞門泰広が、知行地の平安を祈り建立し、正八幡宮ともいわれ、八左衞 門使用の弓矢、連歌、鬮(くじ)箱等を献納した。草創時の棟札が現在も残されており、当初の別 当は泉蔵坊で、のち藤枝家が代々これを勤めた。

 その後元禄八年(一六九五)寛延四年(一七四七)、安永四年(一七七五)と新社殿を造立している。この宮歌八幡社には近世初頭から明治にいたる宮歌村文書八十七点が保存されていて、北海道内では一村古文書として貴重なものであると、評価されている。










合殿四社  
 稲荷神社

 祭神 宇迦之御魂命

 宝暦十年(一七六〇)村中建立。







  川上神社

 祭神 瀬織津姫命

 享保二年(一七一七)村中建立。







 恵比須神社

 祭神 事代主命

 明和五年(一七六八)村中建立。







  産胎神社

 祭神 木花咲耶姫命

    伊弉諾尊

    伊弉冊尊

 社地山伏山に嘉永三年(一八五〇)村女中建立。










福島町字宮歌(氏子沢)  
 
旧無格社



氏子沢稲荷小社

 明和二年(一七六五)宮歌八幡社末社として氏子沢村中建立。










福島町字吉岡  
 
旧村社



吉岡八幡神社


 祭神 譽田別命

 寛永三年(一六二六)村中建立。元文四年(一七三九)松前藩主第十一世邦広公再建しているが、当初は宮守笹川見嶋で、のち宮歌八幡社の藤枝家の兼務である。安永七年(一七七八)、天明七年(一七八七)、文化七年(一八一〇)と再建されている。










境内二社  
 館神神社

 祭神 土甲斐守季直

 穏内館主土甲斐守季直の霊を館神大明神として慶長十七年(一六一二)村中でこれを祀ったが、寛永二年(一六二五)創始説もある。宝永二年(一七〇五)再建。







  金比羅神社

 祭神 大物主命

 文政九年(一八二六)村中建立。当初は広念庵寺内にあり、のち八幡社内に移る。










合殿二社  
 稲荷神社

 祭神 宇迦之御魂命

 宝暦四年(一七五四)村中、金比羅神社に合殿して創始。







  恵比須神社

 祭神 事代主神

 宝暦四年(一七五四)村中、金比羅神社に合殿して創始。










福島町字吉野(礼髭)  
 
旧村社



吉野八幡神社


 祭神 譽田別命

 寛文五年(一六六五)知行主松前左衞門広ただ(松前家第七世藩主公(きん)広四男=村上系松前家祖=延宝六年(一六七八)弟の家老幸広と斬死)が創建、その際の棟札は下図のとおりである。

 その別当大学院とあるのは宮歌八幡社の二代目別当(修験者)であると考えられる。その後この神社は元文五年(一七四〇)、寛延二年(一七四九)、宝暦六年(一七五六)、安永五年(一七七六)と修理、再築が行われてきた。また、松前藩の家老で文学者として有名な松前監物広長も、この神社を深く崇敬し、その子鉄五郎広英は、父広長の遺品の抱琴をこの社に寄進していたが、今はない。










合殿三社  
 船玉神社

 祭神 建波夜須佐(たてはやすさ)之命

 宝暦七年(一七五七)村中創始。







  恵美須神社

 祭神 事代主命

 宝暦七年(一七五七)村中創始。







  廣峰神社

 祭神 松前広峯の霊

 村上系松前氏第七代平治右衞門広行(広峯)由あって元文三年(一七三八)切腹し、縁のあった境内に一社を設けたもので、寛延二年(一七四九)創建。










福島町字松浦(ソッコ)  
 
旧無格社



白神神社


 祭神 猿田毘古神

 寛文七年(一六六七)ソッコ、あるいは祖鮫(そごう)明神といわれた。寛政元年(一七八九)この地方を旅行した菅江真澄の記録『えぞのてぶり』のなかにも、「そう高くない磯山に鳥居が見えるのは祖鮫明神という、海の荒神をまつったものである。」と言い、漁業者の尊崇の篤い社であった。祖鮫とはサメの事で、魚を海岸に押してくる神様として、この種の神社は北海道には二社しかない。










福島町字松浦(折戸)  
 




恵美須神社


 祭神 事代主命

 文化二年(一八〇五)村中創建。

 このほか藩政時代には矢越神社、小谷石大明神社(観世音社)、湯倉明神社(湯の里温泉)等も福島神明社管掌の神社であったが、遠距離のため、のち知内雷公社大野氏の管掌と変った。











寺院



福島町字福島

 
 観念山寿量院 法界寺

 宗派淨土宗

 この寺の沿革については享和元年(一八〇一)五月、福島村土(戸)門治兵衞 の『由来縁記』がある。それによると、









   由来縁起

抑(そもそも)当寺之昔明應年中(一四九二~一五〇〇)之頃大渕(まふち)川(知内町)とてみなきりさかふ寺あり、おり藤の枝ともおぼしきに光り有こはいかなると不思議に気を付ケ見るに大蛇のことく形ち渕よりあかり藤の枝につらなり、角をさし、上ケ眼ハ日月のごとく紅の舌をまき、我真理一言転ニ悪業一成ニ善業一たれいうともなく、末世濁世の衆生弥陀名号にて疑情も、知識の一句ニ解ん。既に此地退転せん、但一念徃生住ニ不退地一といふ声かすかにきこへ否や、光りをはなし西江飛去る。 家数ありといへともちりになり、夫より無量諸仏に祈誓し奉るに、ある夜の夢に呼声あり、忽然として地蔵菩薩のすかたにて無量 の諸仏觀ニ一念一を肝膽をくたき、折加内村一寺建立法界平等利益せん。末々念仏繁昌土地ならんと告ると思うに、忽夢ハさめにけり、夫より深意をくたき、右解文の一句をひろへ山院の号を改、建立成就如件。



大永三癸末年月日





観念山 寿量院 長泉寺



…一部略…

右之通代々当寺法界寺由緒什物萬端書附私開檀那故預罷在候。然ル処近来在寺故出家無之、正行寺(松前)世話ニ成、住主直シ置候。客末之寺ニ御座候を末寺ト心得、甚難渋死去人殊ニ取置込入、三、四年以前住主無之死去人彼是正行寺致申候而、町御役所へ願出、下代中挨拶正行寺出家罷越所置申候。後住主有之候委細古来ノ由緒書扣正行寺ニ無之候。法界寺ニ始終書一切無之候得共、此度毘沙門宮申上候ニ付奉差上候。以上。



福島村





土門 治兵衞 印





享和元酉年五月日



とある。この縁記には創立期の沿革が詳しく記録してあるが、それによると、大渕(まぶち)(知内村萩沙里)の長泉寺が折加内村(のちの福島村)に移ったのは明応二年(一四九三)といわれる。その後上之国城代南條越中守広継(脇本館主の末裔)の室(松前家三世蠣崎義広の長女)が謀反し、斬罪に処され、長泉寺に埋葬し、その碑所とし、折加内川(福島川)を長泉寺領としたという。その後天正十三年(一五八五)折加内川から一尺五寸の阿陀仏が出現したのを機に寺号を法界寺と改め、淨土宗となる。開山は然蓮社天譽真、正和尚、中興は深蓮社廓譽鉄荘和尚である。さらに、同十七年夏正行寺、光善寺と共に松前家五世蠣崎慶広(のち初代藩主)に謁し、客末となり、さらに正行寺末寺となっている。

 法界寺は明治元年十一月一日の徳川脱走軍との福島の戦闘で松前藩の本陣となり、戦火によって焼失し、明治六年本堂及び庫裡は復元されたが、さらに昭和二十年十二月にも火災で焼失し、往時を伝える史料は全く残されていない。しかし、常磐井家文書等によると若干の記事がある。それによると、








寛政九年(一七九七)『戸門治兵衞旧事記』

法界寺地間数左ニ記ス

表口二十八間内門通路垣岸垣迄四間、裏行横通表口治兵衞蔵屋敷迄下岸迄三十四間、横通 裏行五十四間。

本堂建地 九間

ろうか〃 三間

庫 裡〃 八間

文化七年(一八一〇)『福島沿革』

正月十六日夜九ツ時(午前0時)法界寺住職斬首セラル。取調ノ結果、該寺ニ奉公セル仙台浪人東之助所置(行)ナルヲ相分り、三月十一日吉岡八幡宮ヘ隠レ居リシヲ発見。此件ノ爲八幡宮御本殿建立仰付ラル。神主藤枝駿河、奉行(幕府松前奉行)荒尾但馬守見分セラル。


とある。この史料を見ても、藩政時代の法界寺の規模を知ることが出来るが、その豪壮な建物といい、寺侍まで置いていた法界寺は、一村一宗の寺として権勢を誇っていたことを物語っている。

 歴代の住持は次のとおりである。







初代鉄荘和尚-二代仏鑑和尚-三代直正和尚-四代法界和尚-五代長悦和尚-六代良悦和尚-七代懐益和尚-八代義詮和尚-九代順的和尚-十代音察和尚-十一代察立和尚-十二代円海和尚-十三代廓栄和尚-十四代弁秀和尚-十五代専澄和尚-十六代源随和尚-十七代本随和尚-十八代義瑞和尚-十九代海信和尚-二十代智定和尚-二十一代智洞和尚-二十二代智運和尚-二十三代智現和尚-二十四代法運和尚-二十五代戒運和尚-二十六代定克和尚-二十七代隆清和尚(現住)


 なお、この法界寺境内の墓地はかつて、村内共同墓地があったと思われ、各宗派の戒名の彫まれた墓があり、特に寛文元年(一六六一-三三三年前)、淨秋禅定門の彫銘をもった墓ともう一基の緑色凝灰岩製の曹洞宗徒の墓は、この年代の福島地区の葬祭文化を現すものとして貴重であるほか、明治元年の戦争の際、福島村で戦死した徳川脱走軍兵士毛利秀吉の墓もある。













福島町字吉岡 
 広念山 大法院 海福寺

 宗派淨土宗

 常磐井文書『大公儀様江松前之寺所寺烈御答之控-寛政十年写』によれば、「年号相知不申候。嶋村百姓弥平治、先祖吉岡村ニ所縁御座候。老年ニ相成隠居致剃髪法名広念ト付、仏所立墓守ニ相成。広念坊宝永八年(一七一一)死去後広念庵ト改島村法界寺末寺」


とあり弥平治という者が一庵を建て、その法名広念から広念庵と称したといわれる。『福山秘府 寺院本末部』によれば








吉岡庵

正徳四年(一七一四)甲午依正行寺察玄之願与其地。又元禄六年(一六九三)癸酉冬十月記録日、道心者高庵以正行寺願庵地于吉岡。是正説也乎。當時光念庵。安永七年迄八十六年也。


とあって、高庵という道心者が松前正行寺を頼み、吉岡村に一庵を許され、吉岡庵と称したが、その後光念庵と改めたとされていて、この説の方が正しいと述べている。また、『吉岡村沿革史』にあっては貞享二年(一六八五)僧廣念の開基であるとしているが、その開基は定かではない。吉岡八幡神社に宝暦四年(一七五四)合殿された稲荷神社、恵美須神社はこの寺の境内にあったといわれている。

 寺号が公称許可となり、海福寺と称するようになったのは、明治十二年六月三日である。また、歴代住職は次のとおりである。







開山応念和尚-二代念信和尚-三代弁秀和尚-四代若堂和尚-五代梅元和尚-六代厚順和尚-七代竜弁和尚-八代本随和尚-九代在冏和尚-十代隆道和尚-十一代洞海和尚-十二代素澄和尚-十三代白進和尚-十四代泰順和尚-十五代霊順和尚-十六代淨誉和尚-十七代真哲和尚-十八代義全和尚-十九代智鏡和尚-二十代麟山和尚-二十一代真賢和尚-二十二代真広和尚(現住)










福島町字吉岡  
 速成山専称寺
 宗派 真宗東本願寺派


 松前専念寺系譜によれば、七代瑞玄の代の享保六年(一七二一)に、「吉岡村ニ一宇創建掛所吉岡專念寺ト言フ」とあるが、掛所とは真宗で出張所を意味している。また、海福寺の項で引用した常磐井家記録では、










一向宗 專念寺



福島村、吉岡村百姓とも松前表江雪中之砌、猶又難所故僧用之時節難儀仕候ニ付、知願と申道心数年專念寺差遣置候。仍享保十三甲年右両村檀中願ニ付、草庵爲立申候。宝暦七辰年本寺免許ニ付願ニ付願出申付候。


としているが、創建は享保六年が正しいと思われる。さらに寺号公称については、同じ專念寺系譜によれば、十二代厳證の代の「明治五年五月吉岡外四ヶ所ノ掛所ノ称ヲ除キ留主居ニ住職爲致度旨出願ニ依リ之レヲ許可シ吉岡專念寺ヲ專称寺ト改称セラル」としていて、この時点より専称寺と称するようになった。その後の住職は次のとおりである。







入江恵音-入江普嘉美-




福島町にはその後日蓮宗妙蓮寺、曹洞宗諦玄寺、真宗東本願寺派專徳寺、天理教北福島布教所があるが、これらは何れも明治以降の創立であるので、下巻で詳記する。