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第五節 松前神楽と社家笹井家

 福島町の福島大神宮(福島神明社)の神主は、現在の常磐井氏の遠祖代々が継承してきた。福島村にその祖が定着したのは天正元年(一五七三)といわれる。この初祖、二祖は常盤井姓を名乗り館古山に居住した。三代を継ぐべき相衡(つねひら)が、松前長門利広に同心して、元和四年(一六一八)本州に逃げ「松前家ノ亡(ほろぼ)ス処トナレリ」(常磐井家福島沿革史)として常盤井家は断絶した。

 二代武治の二男道治(みちはる)が一家を創立し、笹井姓を名乗った。しかし、同家に伝えられる京都神祇官発行の神道裁許状では佐々井を姓としている。この笹井姓に移行する過程は、利尻山神社常磐井家の系譜に詳しく、








…略…寛永十六年己丑九月二十一日村中心を同じゆうする者協力して、神明社再建し、此処に始めて神職となる。

同二十年九月十六日初雪の頃、今の居宅を、大笹原を開墾して、笹葺の家を造り、館古山より引移る、住居の地内より笹を掻(か)き分けて、山の清溜を汲む。村人誰人誰言ふとなく、笹屋、笹家と称ふ。遠祖より代々常磐(盤の誇り)井と号すれども、笹は四季色香不変にして、萬代不窮の常盤ものなるを以って、常磐も笹も同意なるに困り、常磐井の井を取りて、笹井と改む。


と、笹井姓移行の過程を述べている。この笹井今宮藤原道治が笹井家中興元祖で神職となって一〇三歳で、享保四年(一七一九)没するまで福島神明社の興隆と笹井家の家門隆昌に尽力したといわれる。正徳四年(一七一四)八月九十八歳の時松前神明社白鳥若宮伜多宮と共に上洛、神道神祇官吉田卜部家より神主裁許状と継目相続を許され、任官名今宮と称したと言われる。しかし交通 事情の整備されていないこの時代、九十八歳の老人が蝦夷地からの上洛は考えられないが、同家所蔵『職初代継目任官上京旧記』には、







正徳四甲午年八月廿八日松前明之司白鳥若宮太夫藤原光武上京、嶋村明之仕司笹井今宮藤原道治数年来伊勢講結して老體生死を不圧、伊勢参宮ニ罷登り、十一月廿三日京吉田殿江同道ニ罷出。…略…(明治十四年十月旧記改写 、笹井武麗(あきら))


と記されている。しかし、この頃は今宮の息子治部武次が職を行っていたと思われ、和賀白鳥家(松前八幡司)の『天明八年御記』では、この今宮上洛の二年前の、







一正徳二辰年正月八日今朝國中惣頭役永々被仰付候。人例年之通り御相勤候。隼人官職仕壱人立先へ、夫對馬、多宮一所ニ其後段々相勤候。上ノ國伊織、宮ノ歌見嶋、福島村宮松も来候。


とあり、この宮松が父に代って今宮名をもって上洛したことも考えられる。さらに同史料には、







一正徳四年午八月廿五日嶋村称宜宗宮願望御届候ニ付、参宮ニ罷登り之由。依之通 判判願上候。壱人登り候よし、隼人申上候。廿七日ニ願之通被下之候。


と記され、同家に残る通り判には、














 通状写

此人上方江相越候徃還

無滞可願御通者也

 正徳四午年八月廿七日

 
 
蠣崎主殿 印

下國勘解由 印

所々人改 

御番衆中
 


となっているが、この記録は肝心の使用する人の名が記されておらず、後代の作である事が分かる。

 今宮道治の神主時代の慶安二年(一六四九)に、それまで折掛(草屋程度)だった神明社を村中の協力によって、新社を再建し、松前神明社より、藩主の命によって小鏡を勧請し、さらに川濯(かわそ)神社も月崎明神社から移築する等、社地整備に大いに尽力している。この今宮の後半の年代は四代治部武次(幼名宮松と考えられる)が実質的には神主として活躍し、享保十九年(一七三四)六十九歳で没している。

 現在常磐井家には多くの神道裁許状が残されているが、これは文化四年(一八〇七)の火災では焼失を免れていたと考えられるが、この状の最古のものは五代治部正武種の延享四年(一七四七)の吉田卜部家発給のものであるが、武種は安永三年(一七七四)七十四歳で没している。六代は日向正武(初名雅楽(うた))のち武重で、弟武爲は宝暦八年(一七五八)六歳で宮歌八幡社神主藤枝爲次の養子となっており、その後、七代筑江の子丹弥も武爲の養子になるなど、常磐井家と藤枝家は親類としての交流があり、神楽についても両者の深いきずながある。武重は寛政九年(一七九七)六十三歳で没している。七代筑江武雄は天明二年(一七八二)二十四歳で若死したが、笛が巧みであったと言われる。八代肥後正武彦は武雄の長男で、初名佐浪、治部正と称し、人格高潔で笹井家中興先祖と言われ、天保六年(一八三五)五十五歳で没しているが、この肥後正の神主時代の文化四年(一八〇七)正月元日神明社本殿から出火、建物および社宝の総てを全焼し、同年再建、現在同社神宝として残される猿田彦面 、獅子頭、金幣等はこの際の再製である。

 九代雅楽(うた)武昌は別家笹井庄右衞門の二男で、文政五年(一八二二)継目相続し、初名和泉、典膳、のち治部正となり、天保十年(一八三九)四十三歳で没している。十代肥後武義は天保十五年(一八四四)継目相続し、嘉永三年(一八五〇)三十三歳没、十一代市之進武良は継目相続をせず、社職を勤め十歳で安政三年(一八五六)没した。

 幕末から明治にかけ活躍したのは笹井参河(みかわ)武麗である。武麗は原田治五右衞 門の二男安太郎で、安政四年市之進死亡後の笹井家の娘ひもに入婿(むこ)、十六歳で家督した。このことは『白鳥氏日記 第十四巻』に詳しく記されている。

























安政四年
十一月廿六日嶋村村役人并笹井親類惣代として九兵衞 氏子惣代として惣次郎右両人相見得九兵衞申ニは早速なから申上候餘り延日ニ相成候得共當夏中申上候笹井家聟養子之義村中漸相談決着ニ相成同村治五右衞 門二男安太郎貰請候ニ付此段御届ニ罷出候と申事ニ付拙者申ニは夫は目出度事ニ候當方ニ而も安心致候と申入候九兵衞 申ニは何れ御當家様へ追々安太郎義願上候拙者申ニは其義ハ村方へ差置候而も職分難覚何れ村中相談之上可然と申 聞候九兵衞 申ニは在方掛りへ爲知不申候而も宜敷哉問合ニ付其義ハ爲含置候而可然猶又願書御聞届ケニ相成候ハヽ安太郎義ハ拙者方へ届ケニ可差出候明日願書差出候間御聞届迄逗留致候様申聞候其節村方中そい弐掛九兵衞 壱掛持参被致候

同廿七日笹井故市之進姉すも方へ聟養子貰請候ニ付村中相談相究御役所江書面 差出其文面

 乍恐以書附奉願上候

私配下嶋村人笹井故市之進姉すも方へ同村治五右衞門忰二男安太郎儀双方熟談之上聟養子ニ貰請申度奉存候間何卒御聞済被仰付被下置度此段奉願上候以上

 巳十一月廿七日



白鳥對馬 印



 御奉行所

右は拙者持参下代冨永与三兵衞ニ頼置候
十二月四日御用使有之司差出候処嶋村笹井故市之進姉方へ聟養子之願書御聞届ニ相成候趣下代櫻庭嘉右衞 門達ニ御座候其節拙者采女方へ事罷越留主中ニ而在方掛り代ニ参り居候九兵衞 方へ達有之候儀九兵衞拙者方へ相見得申置候得共帰宅不致候故翌五日ニ又候相見得其節申渡遣候
同十八日嶋村先例之通松内之者來り候昨年迄参り候者ハ當年かわり改而村方被申付候様申事ニ候尤小松十向不足ニ付其段申遣候黒米八舛塩引弐本差遣候
同十五日嶋村人笹井安太郎相續方之義御聞届ニ相成候ニ付両頭へ肩衣ニ而村役之者三人付添相見得其節鱈弐掛持参被致(順序原本のママ)
十二月廿三日嶋村人笹井安太郎村方願書ニ付見習ニ來尤村方一統九兵衞 親類庄五郎六次郎代ニ而相見得申候其節樽肴持参四百疋拙者弐百疋家内へ司夫婦へ百疋ツヽ亀三郎夫婦茂吉夫々心付有之候盃差出帰り儀弐朱差上候


安政四年安太郎は神主見習として松前神明社白鳥對馬(つしま)および司(つかさ)について修行、文久二年(一八六二)八月、五年間の神主基礎の修行を終え、福島へ帰社したが、白鳥司からの申し渡しは同史料によると次のとおりである。





































  申渡之事
天下太平國家安全五穀成就上は大御君を始め万民至迄彌安穏殊ニは其村安全として朝ニ無怠日奏可相勤事
其村ニおゐて時々之御事平日御至迄相勤候節ハ兼而相教置候通 り職之作法相守り修行可致事
正月七日御禮式の節は無間欠前日出登いたし七日御規式御盃頂戴隔(ママ)式之順席相改メ御可申上様可致事
正月御獅子御事并霜月御城内隔年之御事の砌は其筋出登可致旨之書状相達候ハヽ時刻無間欠出登いたし當方ニ而彼是不申更様猶順序改メ相勤可申事
七并弁天両様ニ不限御祭の砌は其筋呼出しの書状相達次第態人を以拙者へ其旨可申遣右ニよらす万端下知を請候様可相心得事
両殿様御儀御参府并御入國の砌は御見送御出迎共拙者呼出しの書状相達不申候共御順風ニ付而其村役人出登之砌同道いたし御入城又ハ御出帆之砌恐悦可申上事
暑寒之砌入日前日に出登致居當日ニは拙者共同道ニ而寺御奉行所江罷出御伺可申上候事
五節句三朔日式日ニは其村鎮守御相済候上當本式日之拜并恐悦として出登いたし候様可相心得事
其村始持場之村鎮守新規御建之小至迄本拜殿并鳥居祠繕ひ建替之節は出登之上拙者江相届手を入可申左も無之一己之了簡ニ而取計候砌は譬ひ出來共取解しの上急度慎ミ申付候間左様相心得可申事

御事用向并御用向有之候節は拙者呼出し之書状差出候間右日限無間欠出登可致様相心得可申事

右之條々申渡候間急度相守心得違ひ無之様相勤可申候若病氣ニ而彌出登相成兼候ハヽ其段態人を以早速當方江可申遣遠方之事故万一虚病ニ而及不参後ニ而相知れ候節は其村役人同道ニ而呼出急度叱之上慎ミ申付候条僞無之様相勤可申事










文久二壬戌年閏八月八日 
 
本   大 主



昭 武


 笹 井 森 美 江

右之通相認メ差遣し其節村役惣代として百姓代七郎兵衞忰親類惣代勇吉右の仁共拙者申渡趣承り罷帰り被申候以上


この申渡状から見ても当時の神主子弟の関係が、いかに厳格なものであったかが分かるし、この武麗が、幼主の続いた笹井家保持の断絶しかかった神楽を、松前神明社修業の五年間に総てを学び取り、これを子孫に伝える役割を果 たしている。慶応三年(一八六七)には上洛、吉田卜部家より継目許状を得て参河正(みかわのしょう)に任じている。

 武麗は笹井家の保持して来た古文書類が、神主裁許状以外の総てが、文化四年(一八〇七)の福島神明社の火災で消失していて、その沿革、伝承等の滅失を恐れ、福島の旧家であり、名主でもあった戸門治兵衞 家(土門)、原田治五右衞門家、笹井庄右衞門家等から史料を収集して、多くの常盤井家、笹井家史料を作製している。従ってこれらの史料は幕末に編集されたもので、信憑性(しんぴょうせい)に欠けるものもある。

 武麗は箱館戦争の際、神官をもって組織した図功隊士としても活躍し、さらに神明社と神楽をもって村民とのつながりを強める等、神楽の伝承に大いに貢献し、明治十七年四十一歳で没した。

 武麗には三人の男子があり、長男は武胤(慶應元年生れ)、二男は秀太(明治四年生れ)、三男は榮太(明治六年生れ)で、後それぞれ神職となったが、武胤は笹井姓を常磐井姓に改めるべく、明治二十六年五月松前郡役所に願い出て許可され、現姓に改めた。これは遠祖の姓常盤井姓を復古しようと改めたものであるが、その際盤は岩の浅い上面 を指すので、それより深く根強い磐に改め、常磐井姓となったといわれる。

 その後武胤は明治四十四年利尻郡沓形村北見富士神社社掌となって福島大神宮を離れ、同社(福島神明)は弟秀太が社掌となって現在の常磐井家となっている。さらにその弟榮太は福山町に移り、熊野神社の社掌となったが嗣子がなく、死絶している。

 なお、神職としての笹井(佐々井)家、および常磐井家の系譜は次のとおりである。












図をクリックすると拡大図が表示されます。




 笹井家と神楽の関係は、前第四節で述べた如く、常磐井家『福島沿革史』によれば、








寛文二年(一六六二)

三月六日ヨリ廿日マテ日月紅ノ如シ國中闇夜朝夕燈火ヲ点スルニ至リヌ。此ニ於テ村民一同相謀リ明ニ参籠シ、祠官常磐井今宮ニ願出、御楽修行。爾後正・五・九月祭月定メ永代之ヲ勤ムルコトニセリ、天下太平当所安全ノ爲ナリ。


とあって、この年初めて福島村に於て神楽が行われたとしていて、これが松前神楽の創始だと常磐井家では伝承している。しかし、これについては異論もある。

 この神楽より三十七年前の寛永二年(一六二五)松前八幡社移築の際、御宝殿、拝殿と共に神楽屋も新築されている。ここで行われた神楽も現在の松前神楽に通 ずるものであるか否かは不明である。その後、寛文巳年(五)に松前藩主が羽州秋田の住人大塚理兵衞 正吉作の御獅子頭一頭を松前熊野神社に寄進している。これは松前神楽のうちの獅子神楽が体形化されて来たことを示している。また、この熊野神社の獅子頭が藩主の寄進になるところから領内第一の獅子頭とし、正月十一日または十二日に行われる城中正月獅子祓神楽の場合、熊野神社から前日八幡社か神明社に迎え仮座し、翌朝この獅子頭を捧げて城中に向かうことを慣例とした。

 福島村においても明和元年(一七六四)御獅子が初めて造立されたことが『戸門治兵衞 旧事記』に記されている。「明和元年御獅子初而造営願主島村司笹井治部正藤原武種代當明江御鎮座仕候」とある。この獅子頭は松前城下を離れた東在の礼髭村、吉岡村、宮歌村、白符村、福島村、知内村の六か村では第一の獅子頭として城下に習い、各村神社の例大祭には、福島神明社から獅子頭を迎えて斉行するのが慣例となっていた。この獅子頭は寛政九年(一七九七)にも再造されている。

 延宝二年(一六七四)城中大神事神楽が制定されて松前神楽祭儀形式が定まったが、その際の演技者は誰か明確な史料はない。しかし、後代の記録からは次の諸社家が参加していたと考えられる。








































松 前八幡神白鳥家
 神明白鳥家
 馬形(まがと)神佐々木家
 熊野神木村家
 羽黒神藤枝家
 浅間神木村家
 西館稲荷神佐々木家
江良町八幡神佐々木家
福島村神明笹井家
白符村神明富山家
宮歌村八幡神藤枝家
知内村雷公大野家


で、これらの諸家が伝統的な松前神楽の伝承者であった。

 この神楽の伝承については、松前藩領内で神職となるには前段で述べた如く、その子第が三~五年は觸頭の両白鳥家か準觸頭の佐々木家かの何れかで修業することが義務付けられており、その必修すべきものの中に神楽があり、ここで定形化された神楽の研修が行われていた。また、城内大神事神楽の際は、この三日程前に出演する社家一同は、松前八幡社と神明史社が交互に参集して温習をし、舞手の揃った段階で登城をしていた。

 このような厳格な伝承過程のなかで、松前城下に限らず、和人地領内では不遍的に神楽が行われて来たが、地域的にはグル-プ形成も行われていた。松前城下では前記七社と江良町佐々木家。東在は笹井家と宮歌八幡社藤枝家、白符神明社の富山家、知内雷公社大野家が一グル-プを形成して、笹井家と藤枝家は親類で特に密接なる関係を保持していた。西部では江差姥神社の藤枝家、上ノ国八幡社の小瀧家、乙部神社の工藤家のグル-プ。さらに箱館地区では亀田の藤山家を中心に、箱館の菊地家、尻沢部の沢辺家、湯川の中川家、有川の種田家、戸切地永井家、茂辺地池田家が一グル-プを形成していて地域毎にも研鑚を重ねている。

 福島町内で具体的にどのような神楽が行われたかについての詳細な記録はない。常磐井文書中に次のような文政十一年(一八二八)の神楽式の記録がある。










宮遷次第 

先躰鎮座

次酒渡

次御

次惣拜

次御開

次奉幣

次小楽

家中




















































退 下
御楽式次第  
先拜家中次四方拜
次御楽初富山丹波次四劒舞 
次鳥名子舞
藤枝蔵人

  和泉
次容
丹波

和泉
次跡払笹井治之進次釜清女
富山丹波

  和泉
次御楽笹井治部次利生舞
富山丹波

  和泉
次御湯上笹井治部次太詞 
 中 休  
先御獅子和泉次山祇富山丹波
次千載 次翁 
次三番藤枝蔵人次番学 
次天王遊 次七五三払和泉
次上惣家中  
 都而二十一事  

文政十一戌子年秋九月十日



祭主主 笹井治部正代



 
千鶴萬亀   


 これは福島神明社が文化四年正月火災に焼失し、同年秋再建されたが、さらにこの年の再々築した際の御安産神楽で、祭主は笹井家八代神主武彦で、笹井和泉とあるのは、のちの九代神主雅楽武昌と思われ、治之進とあるのは、のちの十代神主肥後武義と考えられ、それに宮歌村藤枝蔵人と白符村富山丹波の五人で斉行しているが、笹井家は親、子、孫と父子相伝の形でこの神楽に参加していることは注目されるし、さらに藤枝家(親族)、富山家が加わっているのは、福島グル-プの典型的なものである。

 また、十二代三河正武麗(たけあきら)が、青年(当時安太郎)で松前神明社修行中福島村神明社で行われた神楽について、『白鳥氏日記 第十五巻』では、










安政六年(一八五九)
九月十八日島村迎馬参り出立仕候。出勤頼ミ候主ハ白鳥主殿殿(八幡)、佐々木正親殿(馬形)ニ御座候。拙者(白鳥司)、安太郎ニ而罷越申候。白符村刑部(富山)一人出勤、拙者分ハ親服中ニて祭主白鳥主殿殿ニ相頼、都合四人ニ而御楽修行済ニ相成候。同日中ニ御幣束いたし十九日之御神楽ニ御座候。定例正、五、九之御楽ニ壹集ニいたし川濯明、稲荷大明之御遷座御楽仕、舞学も有之数左之通 、容、鶏名子舞、跡拂、御獅子、七五三拂らひニ御座候。無滞相済候。御事跡ニ而御馳走有之、翌廿日帰宅ニ相成候。御初穂 金弐百疋ツヽ(銭一貫)主殿、正親、拙者也。刑部儀ハ壹朱也是ハ御遷座御初穂也。外ニ定例正、五、九月之御初尾(穂)ニ指出し候由承りし、猶又御鎮座、御動座御初穂修行仁へ弐百文ツヽ指出。


とある。この川濯神社、稲荷神社の再建御遷座を安太郎修行中であるので松前神明社に祭主を願い出たが、白鳥司が親の喪服中なので松前八幡社に祭主を願い出たものである。この際、親族の宮歌八幡社の藤枝駿河は出席していないが、それは駿河に不届な事があって觸頭から出入差留となっていたからである。







福島大神宮で奏上される松前神楽




 笹井家は代々松前神楽の名手といわれるが、三代(笹井家初代)今宮道治(みちはる)は寛文二年(一六六二)初めて神楽を行い、百三歳の高齢で没したといい、四代治部武次、五代治部武種、六代日向武重共に高齢で没しているので、同家の伝承する神楽は確実に伝えられて来たことが考えられる。七代筑江は安永五年(一七七六)十一月十四日、十五日の城内神事大神楽の際に、笛を吹割り、藩主十三世道広公より笛の名人との御賞言を賜わったというが、惜しいかな二十四歳で若死している。八代治部武彦も笛の名手として知られ、天保二年(一八三一)の松前七社大祭礼の際の門祓(かどばらい)の笛を吹き、その孫治之進は鉄拍子(茶釜)で参加している。

 九代治部武昌(雅楽・和泉・典膳)は継目まで圓吉の名で、松前神楽の奏者としてしばしばその名があり、十代肥後武義は幼少から治之進の名で、神楽奏者、演者として活躍したが三十三歳で没し、その子十一代市之進も十歳で没し、一時笹井家は断絶に頻したが、十二代参河武麗(たけあきら)(原田治五右衞 門二男安太郎)が、市之進姉のすもとの婿養子となって十六歳で家督、五年間の松前神明社での修業で、神楽の基礎を学び、慶応三年(一八六七)に京都吉田家より神主裁許状を得、明治十七年四十一歳で没するまで松前神楽の伝承と、普及に尽力をした人で、その子武胤、秀太、栄太はそれぞれ、明治から大正、昭和初期にかけて松前神楽の名手として名を馳せた人達である。

 松前藩領内の神楽に対しての崇敬は、他藩では見られない異常な程で、藩主自体が作曲したものがあると言われ、それを支える住民の熱意も篤いものがあった。住民の神楽奏上を願った種類等は、前段で述べたが、福島村内の正月御獅子門祓には、巡行先で年祝い、新宅祝いのある家は、皆々御獅子様の「お上り」を戴いて祓い清め、また、鯡 (にしん)漁業に従事する人達は、正月の鯡神楽をはじめ、二月の浜清女神楽、九月には豊漁神楽を行って神に感謝し、鎮魂をするのが慣例となっており、これら神楽斉行願いの志納金は、神主の生活を補完するものでもあった。

 また、例祭の場合、福島町の町民は神楽を見聞して佳境に入ると「ようそろ」の掛け声を掛ける。松前町などでは今はこの声を発しないが、これは、藩政時代音曲と演技が一体化し見事な出来栄(ば)えの場合、観客が発する「良くて候」の賞め言葉の遺形である。松前神楽を正しく上演し、さらに氏子がその演技に酔い痴れ、この声を発するのは、庶民の神楽に対する思慕であり、それを造り上げて来た笹井家、常磐井家は高く評価されるべきものである。

 松前神楽に用いた用具には獅子頭、猿田彦面、鳥兜等がある。その代表とされる獅子頭は福島村神明社では、神楽の創造期には獅子頭の製作、安座があったと思われるが詳しい史料はない。ただ、寛延元年(一七四九)の礼髭村八幡社御遷宮の際、福島神明社の獅子頭をお迎えした記録があり、この期には獅子頭が献備されていた。その後寛政九年(一七九七)社司笹井佐波の代にも再造された。しかし、この獅子頭は文化四年正月朔朝五ツ半頃(午前九時頃)の火災で焼失したが、『戸門治兵衞 旧事記』には、







明宮御拜殿中未明ニ参詣相済候跡焼失、御鏡、御獅子、金幣、鰐口、大太鼓、御幕焼失、笹井肥後正差控となる。


と記されていて、本殿及び器物、文書類の一切を焼失した。

 その後、同年中神明社再建が行われたが、御獅子頭も再彫されることになった。『新日記』では、










一、同年三月九日御獅子知内山サカサ川材木出来。長サ一尺五寸、幅一尺弐寸、あつさ八寸。長サ一尺五寸、幅一尺弐寸、あつさ四寸、右二枚は栃之木也
  山子
松右衞門

長作

金重郎

六助


と御番坂(碁盤坂=今の字千軒)居住の山子四人が、栃(とち)の大木を割って獅子頭用の材木を献上したので、この材をもって松前城下蔵町居住の彫物師清兵衞 に細工代二両三分と、御祝儀二分、御樽肴代銭一〆六百文で依頼、御幕は七反此代金は六〆三百文で、九月初旬に完成した。この御獅子様の造立には、この神明社の御獅子を毎年お迎えする各村も協力し、白符村名主五右衞 門より金二分、宮歌村名主長右衞門より金二分、吉岡村名主八兵衞より金二分、礼髭村名主由兵衞 より銭一〆文の寄進あった。

 文化四年九月十二日町中御幸を相済ませ、さらに各村でも御開眼御神楽を行っているが、同記録によると、























御獅子御開眼御神楽入用覚

一拾四〆百六十六文之義ハ右四ケ所ニ而御割合ニ御座候。當村ハ五〆百六十文。
一三貫文礼髭村中名主由兵衞代
一同三貫文宮ノ歌村中名主長右衞門代
一同三貫文白符村中名主五右衞門代
一金壱両三歩(分)吉岡村中名主八兵衞代
一五貫弐百文
當村中

名主達右衞門代

組頭勘右衞門代










御獅子様寄進連中  
當村  
 
花田

川村

花田

花田

西村



花田

福原

 六右衞門

 太郎兵衞

 清七

 善七

 子之助

 市太郎

 兵七

 巳之助


となっており、この御獅子頭造立に合わせ、猿田彦面、大鈴金幣、大太鼓、附太鼓等も調製され、この御獅子頭が現在福島大神宮に社宝として、秘蔵されている。

 松前神楽が、どのような神楽で、どのような過程を経て、蝦夷地に流入定着し、生成発展したかについては不明である。しかし、演技形式と音響、演技序列あるいは諸史料によって見ると、この形式は湯立神楽と舞学神楽とに二分することが出来る。湯立神事神楽は古来より我が国で行われてきた「盟神探湯(くがたち)」の変形化したものである。この盟神探湯は「古代の裁判法の一つ。正邪を決しにくい場合、関係者に熱湯の中の石をひろわせ、手のただれた者を偽りありと判定する。室町時代に、湯起請として復活した。」(『日本史用語辞典』柏書房)とあるが、近世に入っては神前で祓い清めた湯で吉凶を占い、この湯で悪を祓うという方法が採られ、これを神楽前段の神事に取り入れられていて、松前神楽が神事神楽と言われる所以(ゆえん)もここにある。

 また、舞学について故常磐井武季氏の説(『正統松前神楽発刊に当りて』)では、







松前神楽の基本は下座神楽とは異なり、神社祭式を織り込み、鎮釜湯立式の正神楽を基として編成され、山伏神楽の脈も一部入り、京都の舞学が重要な要素となっている事は、楽曲の王座を占める雅楽用の龍笛を用いており、…略…庭散米の鳥兜は雅楽用の採物で、京都吉田神道によって統一された祭式方法が神楽の作法、手振りに含まれ、それ等が基調となって本道の特色ある神事となり、楽曲も亦本道独自ものに発達したものである。


と述べている。これらを参酌すると松前神楽は、岩戸神楽や伊勢神楽、吉田神道を中心とした京神楽、さらには東北地方の番楽といわれる山伏神楽。これに加え蝦夷地で創作された神楽等が渾然一体となっている。さらにこの舞は、神前の方六尺の板の上で、太鼓、小太鼓、鉄拍子(手拍子-茶釜)、七穴の龍笛の一穴を詰めた笛、それに神楽歌の伴奏によって演技され、目、手、腰、足先の総てが、伴奏に合致することが要求され、これらが松前神楽の特色でもある。

 現在、道南地方に保存伝承されている舞楽は次のとおりである。



























































祝詞(のりと)舞

幣帛(みてぐら)舞、榊(さかき)舞ともいう。斉主が狩衣、烏帽子(えぼうし)姿で、青木、白木綿、麻糸を付けた「清道幣」を持って舞う。

跡祓(あとばらい)舞

福田(ふくでん)舞ともいい、狩衣、烏帽子で、斉竹に青木、御幣、麻糸を付けた御幣を両手に持って舞う。

庭散米(にはざこ)舞

二羽散米舞、鳥名子舞とも書く。狩衣姿で二人で舞う。雄は羽根に瑞雲(天)、雌は羽根に海波を描いた鳥兜を頭に載せ、頭と羽根の中間に稲穂の紋を付す。天地に撒く米を入れる折敷、五色絹垂付の玉 鈴、舞扇を用いるが、松前神楽を代表する舞楽の一つ。

神遊(かみあそび)舞

天皇遊びともいう。胸当を被り長烏帽子、白鉢巻、白襷(たすき)、一人三本、一人二本の弓矢を負い、左手に弓、右手に玉 鈴を持つ武神二人の舞。この舞は松前家十世藩主矩広作と伝えられる。

四ヶ散米(しさご)舞

三種の舞ともいい、胸当て(鬼狩衣)、長烏帽子に白鉢巻、四人で、弓、剣、刀の三品を持って舞う。最後には三人で舞納めるが、これは太平の御世に治まり、玉 鉾の道正しく君臣民の立栄え行くを表現したといわれ、これも藩主矩広の作といわれ、主に遷座式に斉行されたという。福島ではこの音曲、服装から発想された四ケ散米舞行列があり、他ではこれを見ることはできない。

千歳(せんざい)舞

この舞は翁舞、三番叟舞の御箱開きの舞で、狩衣、烏帽子に短刀を指し、面箱および中啓(扇)をもって、身体強健、寿命長久を祝い祈る舞。

翁舞

狩衣、烏帽子に白の神楽面を付け、中啓を持って舞う。翁は「とうとうたらりやらととふ」、「千秋萬歳の」の掛声を掛けながら、息災延命、立身出世を願って舞う最もめでたい舞である。

三番叟(さんばそう)舞

黒面を被り、左手に扇、右手に十二鈴を持ち、背低く、色は黒いが、なお矍鑠(かくしゃく)とした健康長寿を示す舞で身体の構え、手のさばき、足のさばきが奏楽の「ハンヨイ」の掛声と揃うのが見せ場という。

荒馬舞

松前遊(しょうぜんあそび)ともいう。城中神楽の際藩主の機嫌が悪いので、馬の好きな藩主を慰めるため、神主一同が即興的に舞ったといわれ、鬼狩衣、白襷、麻糸の髪(しゃが)を被り、跡祓舞の御幣二本を斜めに腰に指し、扇二本、五色絹垂(十二鈴)を持って舞う。

鈴上舞

狩衣、烏帽子、左手に舞扇、右手に十二鈴を持って舞う。鈴は神の心を鎮めるといい、これを上下するので鈴上という。本来は神官の舞であったが、最近は女性が舞っている。

山神舞

山神楽ともいう。白衣袴に赤熊毛(しゃが)(髪)を被り榊を付した御幣二本を背腰に交互に指し、剣を腰に差し舞うが、手指を交差するのは大山祇神、木花咲耶姫(このはさくやひめ)神の二人の男、女山神を表現し、山神を祭る舞である。

八乙女舞

女性二人が白衣、緋袴、千早を着し、扇を持って舞う。松前神楽は本来男性の舞で、この舞は後代にいたって創造されたものと考えられる。

鬼形舞

赤熊毛(しゃが)、鬼狩衣、白襷で、背腰に扇一本を差し手拍子(茶釜)を持ち、二人で舞い蝦夷の生活を表現しているといわれる。

利生(りしょう)舞

神々に初穂を献じ、鎮魂を祈るため、烏帽子、狩衣、扇、玉鈴を持ち、跡祓の御幣を一本傾に指し、折敷、瓶子、湯笹の順に二人で舞う。

兵法舞

一人は狩衣、烏帽子に白襷をかけ、狩衣の袖を肩に結び刀を持つ。一人は鬼狩衣、白襷、麻の赤熊毛(しゃが)を被り、長刀(なぎなた)を持って二人で舞うが、これは松前家祖武田信広が蝦夷と闘った姿を表現しているといわれる。

神容(かみいり)舞

狩衣、烏帽子で背腰に跡祓の御幣一本を右に頭を向け傾に指し、二人で、扇、玉 鈴、米を入れた折敷、鎮釜の瓶子(へいし)一対を持って舞う。扇の手、折敷の手、神酒の手(節湯立)の順に舞う。

獅子舞

十二回手が変ることから十二の手獅子舞ともいう。獅子頭は黒塗低額鹿系統の獅子頭で、それに十二反の黒地に白の日月を染抜いた幕に、麻糸の尾を付したものを用いる。

御稜威舞(獅子の上)、扇の手、劒の手、獅子五方、糸祓、柱固め手、鈴の手、三方頭、面 足獅子の順に行われるが、これには獅子取役、尾取役、猿田彦役、角出(つのだし)役等が必要である。

注連祓(しめばらい)舞

七五三(しめ)祓舞とも書く。狩衣、烏帽子で襷をかけ、真刀を腰に指し、舞いながら殿天井に張られた注連を刀で斬り落としながら舞い、神事の終りを告げ、天下太平、五穀豊饒を祈る。




 このほか、荒神舞、湯倉舞等もあったようであるが、現在は伝えられていない。