新サイト用












 福島町の中心部から東へ二〇キロメ-トル岩部岳の突出した山塊が、津軽海峡に迫ったところが矢越岬である。福島側からは岩部集落までしか道がなく、ここから約八キロメ-トル間は断崖絶壁続きで、岬へは船でなければ、行き着くことはできない。さらに東の知内町字小谷石からも道はなく、正に絶海のなかに孤立した断崖で、昔は小谷石村と脇本村(字涌元)の境の蛇の鼻までが福島村の領内で、小谷石村は福島村の支村で矢越岬も福島村の領域ではあったが人跡を寄せつけず、今なお神秘に鎖(とざ)された岬である。

 この岬には、昔から福島地方の人達が恐れる岬信仰があって、朝夕必ず岬を拝礼するという信仰が続いて来たが、それも次のような伝説があったからである。

 その一=文治五年(一一八九)閏(うるう)四月三十日藤原の泰衡の急襲に破れた源九郎義経は、弁慶やわずかの郎党を引き連れて北上し、ようやく対岸の津軽半島突端の三厩(みんまや)村に着いた。様子を伺っていた義経一行は蝦夷地に渡れば安心と、船を見付けたが、乗馬を乗せる訳にはいかないので、穴を掘り三つの厩を造って馬をここにつないで船出をしたという。それから三厩(みんまや)村の名が生れたという。

 義経一行はこの三厩から船出はしたものの、櫂(かい)を忘れて来たため、皆の持っていた薙刀(なぎなた)を船べりに結び付けて漕いで渡ってきたが、これが蝦夷地でいう車櫂のはじまりだといわれている。

 ようやくの思いで、蝦夷地が近づき一つの岬のそばまで来たところ、一天俄かにかき曇り、黒煙が吹き出し、急に風が強まったので、義経はこの岬には何か妖怪が住んでいるようであるから、私が退治すると言って自慢の弓を岬に向け、「無南八幡大菩薩」と唱えながら矢を射たところ、岬は怪音を発して平静になったので、ようやく吉岡村に漕ぎ渡ったという。その後、この古事に従って矢越岬と呼ぶようになったという。

 その二=室町時代松前の大館というお城には、津軽の領主で蝦夷管領という役職をもった安藤(安東)氏がおり、安東氏はその一族の下国氏をこの大館に派遣し、道南に居城を構える各館主を統制下に置いていた。この下国氏の二代目の殿様で下国恒季(つねすえ)という人がいた。この殿様は傲慢で勝手な行動が多く、家臣が注意しようものなら、すぐ打首にしたり追放したり気に入らない者があると連れてきて、犬と闘わせる闘犬を行わせる等手の付けられない人であった。

 ある時、修験者がお祈りをしたところ、矢越岬に神様が住んでいて、若い女性の人身御供(ひとみごくう)を望んでいるという託宣を恒季に申し上げた。恒季は早速若い女性を集め、船に乗せて矢越岬に行き、女性の着物の袖に小石を入れ、人身御供としてこれらの若い女性を海中に沈めた。それ以来岬を通 ると、海中から若い女性の泣き声が聞こえると恐れられてきた。菅江真澄の旅行記『えぞのてぶり』でも、「行ほどにふなかくしの崎、つづら沢、マシタ、山背泊を経て矢越の山に近づけば、船長(ふなおさ)酒を提にうつして、舳(へさき)に立て神をいただきまつり、このみわを海にこぼして、磯山の神に手向せり。蝦夷の国より帰りしと見えて、船どものしばし帆をおろし、この箭越やこし山に向えて、蝦夷の国より、それらの作りたる弓矢をつとに持来て、放ちて奉るためし也。」とあって、昔から船乗り達は神聖な場所として崇(あが)め祀(まつ)って、岬沖では船の帆を下し、船長は岬に酒を捧げて航路の平安を祈ったといわれている。