新サイト用




















第一節 幕末の松前藩

(二) 松前城の築城

 徳川幕府中期以降幕末までの松前藩主を再掲すれば次のとおりである。
































名前任官名生年月日家督年月
家督

年齢
在年没・退年
没・ 退

年齢
一三道広
従五位下

志摩守

宝暦四

(一七五四)



一月一七日

明和二

(一七六五)



九月
一二二八
寛政四

(一七九二)

年隠

天保三

(一八三二)

年没

三九



七九
一四一〇章広
従五位下

若狭守

安永四

(一七七五)



七月三一日

寛政四

(一七九二)



一一月
一八四二
天保五

(一八三四)

年没
五九
一五一一良広無叙爵
文政六

(一八二三)



五月二三日

天保五

(一八三四)



一二月
一二
天保一〇

(一八三九)

年没
一七
一六一二昌広
従五位下

志摩守

文政八

(一八二五)



八月二七日

天保一〇

(一八三九)



七月
一五一〇
嘉永二

(一八四九)

年隠

嘉永六

(一八五三)

年没

二五



二九
一七一三崇広
従四位下

伊豆守

文政一二

(一八二九)



一一月一五日

嘉永二

(一八四九)



六月
二一一七
慶応二

(一八六六)

年没
三八
一八一四徳広
従五位下

志摩守

弘化元

(一八四四)



三月一四日

慶応二

(一八六六)



六月
二三
治元

(一八六八)

年没
二五
一九一五修広
従三位

子爵

慶応元年

九月一四日

明治二

(一八六九)



一月

明治三八

(一九〇五)

年没
四〇
※五世初代藩主慶広より松前氏を名乗る。



このうち、第十四世藩主章広は梁川から蝦夷地に帰国し、閲意藩の立直しに尽力し、天保五年(一八三四)病没した。章広には見(ちか)広という後嗣がいたが文政十年(一八二七)七月二十三歳で病没していたので、見広の長男良広が家督を嗣ぎ十二歳で十五世藩主となった。しかし良広は在世五年で天保十年(一八三九)に病没し、良広の弟昌広が十五歳で十六世藩主となった。昌広は在世十年ではあったが大いに藩政を改革した。しかし、強度の心神消耗の病気となり藩主を引退することになったが、その子徳広は五歳で多難な藩政を総覧できなかったので、後嗣について幕府に伺っていたところ、










図をクリックすると拡大図が表示されます。




幕府の裁定は、章広の五男崇広(当時二十一歳)を藩主とし、昌広の子徳広が将来成人した場合養嗣として次代を嗣ぐべしというものであった。

 嘉永二年(一八四九)七月一日崇広は将軍家慶に閲し、襲封家督の御礼言上をして第十七世藩主となった。同月十日老中松平和泉守乘全(のりまさ)(三州西尾城主六万石-昌広の義父)から「近年屡(しば)々辺警アリ松前地方特ニ要害ニ居ルヲ以テ当まサニ城塁ヲ新築シテ以テ海防ヲ嚴ニスベシ」と松前家を城主大名に格上げし築城を命じた。崇広および家臣の喜びは一しおで、早速和歌に託し国元に知らせている。








東にて搗き立てそめし白餅(城持)を



堅く備えんふる里の神



と、喜びと城主大名としての決意の程を示している。

 築城位置とその縄張(設計)を誰に依頼するかについて、幕府の意図もあり、種々選衡を重ねた結果 、当代我が国の三大兵学者の一人である長沼流の市川一学に依頼することが決定され、抱主である高崎藩主松平右京亮輝聴(すけてるあき)(八万二、〇〇〇石)に礼を尽くして協力を要請し、その許可を受けた。

 嘉永三年三月七十八歳の高齢であった市川一学は、介添えとして息子の市川十郎を連れて松前に渡った。松前を相見した一学は、その地が狭隘で治城の地ではないので領内一巡の上で城地を決定したいと、領内和人地全域を跋渉した結果 、箱館在桔梗野と大川境の庄司山への築城が最適であると答申した。それに対して松前家々臣一同は、幕府の築城意図である海峡の防衛の問題があるばかりでなく、松前城下は蝦夷地第一の戸口を有し、政治・経済・文化の中心地であり、松前氏累代墳墓の地である。さらに全く新たな地に新規築城と城下町を構成することは藩の財政能力からしても無理であると反対し、藩は両者の意見を添えて幕府の裁決を求めた結果 、幕府は松前への築城を決定した。一学はそれでもなお松前に築城するのであれば、福山館のある福山台地(字松城)より、馬形台地の方が広域で、火砲も届き難いので、この地に築城すべきだと申し述べている。藩は馬形野築城は新規築城と同じで多大の費用を要するので、福山館の概存建物を利用し極度に費用を押えて築城することが決定された。

 嘉永三年(一八五〇)六月には松前内蔵広当(ひろまさ)(広純(ひろずみ))を築城総奉行に任じ、その配下に新井田備寿(まさひさ)、蠣崎広明、下国定季、三輪信庸(のぶひろ)、近藤武美、工藤衍(こう)蔵、石塚泰永(やすなが)、竹田忠憲(ただのり)、土谷高貞、富永義鄰(よしちから)を置き、建築は棟梁近藤吉五郎、池田重吉、副工頭(石垣と土工)は野村大作、橋詰彦右衞 門が担当した。







慶応三年七月の松前福山城




 工事はまず旧福山館の不用部分を撤去し、堀を掘り石垣を築くことから始められた。石垣用の緑色水成凝灰岩(ぎょうかいがん)は、将軍山の東南麓の石伐場から伐り出され、主要部は兵庫の本御影石(赤色花崗岩)、越前福井の笏谷石(しゃくたにいし)(緑色凝灰岩)が使用され、夏期に伐り出され、冬期に馬橇(ばそり)で工事現場に運ばれた。木材は上ノ国・江差桧山(ひのきやま)の桧葉(ひば)材(アスナロ桧、羅漢柏)、及部川流域、知内川流域を中心とした知内村、福島村からは栗や桂の大木が伐り出された。

 この築城に当っての最大の悩みは、その費用の捻出であった。普段でも参勤交代など臨時の出費に事欠く藩は、御用金や借上金等で賄う状況であったから、築城資金に充てる貯(たくわ)えなどは全くなかった。藩はこれの財源として沖之口口銭二分を一分増の三分とし、嘉永五年から安政元年(一八五四)の三年間とした。しかし、この増口銭は安政四年まで継続しているところを見ると、財源の捻出は思うに任せなかったようである。さらに、家臣の俸禄の一割を献上させたり、一般 町家にも寄付金の協力を呼びかけ、寄付額は五か年間の年賦で支払うように通帳を作製して、その年の寄付金の領収割印をするようにした。また、金銭協力の出来ない者には労力奉仕をする等、領内住民挙げての協力であった。特に場所請負人や問屋(といや)、小宿(こやんど)、御用達等の大商人や株仲間には巨額の献金を要望し、近江商人のなかには櫓一台分、門一基を献納した者もあった。

 『下国家旧記』によれば、この築城に費した費用は、沖之口増口銭一分増分で五か年分が一一万〇、三一六両に達しており、その他の献金を併せると一五万両から二〇万両にも達していると思われる。工事中の嘉永五年八月築城総奉行の松前内蔵が没したのち、安政元年には下国安芸崇教(あきたかのり)が総奉行として工事を指揮し同年九月末完成した。十月二十四日には幕府目付堀織部正利煕(おりべのしょうとしひろ)が属員と共に来て、新城の検分に当り、松前福山城と呼ぶことになった。

 この出来上がった新城の規模は、『御新城縄張調』によれば、次の通りである。














































総面積二万一千七十四坪二分九厘余






本丸 八千五百九坪八分余






二丸 四千七百二十九坪九分余

三丸 四千四百九十三坪二分余

堀廻り三千五百七十一坪二分余



三重櫓

(やぐら)



地ノ間十二間四面

二階 九間四面

三階 六間四面
惣高サ 土台上桁(けた)迄五丈四尺六寸
二重櫓
地ノ間 七間四面

二階 四間四面
惣高サ 土台上桁迄三丈二尺五寸
太鼓櫓
地ノ間 五間四面

二階 三間四面
惣高サ 土台上桁迄三丈二尺
櫓 台 
高サ 一丈三尺
一渡櫓
弐ヶ所 追手桝形(おってますがた)内

梁間 弐間半桁行七間

   巽桝形内

梁間 弐間半桁行十三間
一櫓門
弐ヶ所内銅葺 梁間三間

追手門 桁行五間

同 同断

巽門 同断

一平門

一堀重門

一柵門

一総堀

一惣土居

一惣柵

一総地歩

四ヶ所

弐ヶ所

四ヶ所

百七十九間一分余

八百四十一間一分余

二百四十三間六分余

都(すべて)二万三千五百七十八歩(坪)




 完成した松前福山城は、旧式築城では我が国最後のものである。そして本丸御殿、太鼓櫓等は旧福山館時代の建物をそのまま利用し、従来城郭外であった福山館南方の海岸崖上部分には、重臣達の役宅の建物が建っていたのを撤去して三ノ丸とした。ここには七座の砲台を築いている。城地内の配置等も日に日に進化して来る火砲に対する防備も配慮されていた。

 新城の工事と共に嘉永四年(一八五一)松前広休(ひろやす)を奉行として砲台新設の工事も併せて進められ、城西西館東・西砲台、立石野、折戸、城東宮前、寅向(どらむき)、根森、白神、吉岡の各台も完成し、城中砲台と併せ、十六砲台三十三門の大砲が海に向かって配備され、その後、筑(つき)島、生符(えげっぷ)の海岸砲台も完成し、一応幕府の意図する海峡防衛拠点とする築城目的は達せられた。

 十月末には完成を祝う祝典が行われ、各村名主や年寄の役職者や大口献金者等も招かれ、新城の竣工を祝い合った。その際藩主からの引出物として配られたのが、松前家の裏紋である叶印(かなえじるし)の朱色硯蓋(すずりぶた)であり、これが今でも各村に散在している。