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第一節 幕末の松前藩

(六) 十八世藩主徳広の嗣立と明治維新

 崇広が病没したのは慶応二年(一八六六)四月二十六日であるが、藩は謹慎の身でもあったことから喪を発せず秘匿(ひとく)して、先ず崇広の隠居と養嗣徳広を藩主とすることを願い出、六月十九日幕府の許可によって十八世藩主を襲封した。

 徳広の父は松前家十六世藩主志摩守昌広で、昌広は兄良広(十五世藩主)の死によって十三歳で藩主となり、二十三歳の嘉永二年(一八四九)発疳の病(強度の神経消耗)により隠居した。その時徳広は十一歳で多難な藩政を乗りきることが出来ないと判断し、一時叔父の崇広を藩主としたもので、徳広成人の上は崇広の養嗣として、次の藩主とすることが幕閣との間で約束されていた。その系譜は次のとおりである。










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 藩主となった徳広は頭脳明晰(せき)で皇学、古文、文学等に深い造詣をもち、すでに『蝦夷島奇観補註』、『災妖考』、『梅桜植物誌』などの著書があり、皇国史観に徹し、勤王家として知られていたが、しかし、持病が肺結核で、しかも痔疾が重病で座起もままにならない状況であった。そのため一度は藩主になったものの、この躰での藩政執行はできないと判断し、十一月七日には用人柴田矢太郎を通 じて引退の意志を江戸より藩庁に伝えてきた。

 この報を受けた筆頭家老松前勘解由(かげゆう)、家老蠣崎将監らは、もし引退した場合には前藩主崇広の嫡男敦(あっ)千代を藩主に擁立しようと企策し、崇広栄進を陰から支えた蠣崎監三、関佐守、山下雄城(ゆうき)、遠藤又左衞 門がこれを支持した。これに対し松前勘解由の藩政壟断(ろうだん)に反対する家臣は、徳広の引退を思い止まらせ、この際佐幕派(幕府を助ける)的な藩政の立て直しを図るべきだという意見が多くなり、十一月二十一日には江戸家老藤倉織部や、下国貞之丞、下国左近、蠣崎采女(うねめ)、蠣崎次郎等は反対である旨の上書をし、さらに北見伝治ら中書院同志、蠣崎勇喜衞 等も同趣旨の建言をしているが、さらに鈴木織太郎、新井田主悦(ちから)は退隠を止め藩治を親政し、藩内の奸賊を討つべしと、勘解由らと対決する構えを見せている。また、蠣崎広備、北見伝治、鈴木織太郎、岡口繁蔵らは脱藩して江戸に登り、徳広の引退阻止を働きかけるなど藩内は物情騒然としていた。一方国内では討幕運動と尊皇維新への動き、全国的百姓一揆、打こわし等が続発し、明治新政への始動がはじまっていた。



【箱館裁判所の設置】 慶応三年(一八六七)十二月九日王政復古の大号令が発せられ、攝政、関白、将軍職、幕府制の廃止と、新機構として総裁、議定、参与の三職が設置され、同四年一月十七日(九月八日明治元年と改元)には新政は整ったが、その間に鳥羽・伏見の敗戦を契機として徳川幕府は崩壊の一途を辿り、新政府は将軍慶喜の官位 を剥奪し、幕府旧領地を押収した上で、薩・長を主体とした東征軍を編成して、慶喜討伐に発遣し、ついに戊辰(ぼしん)戦争へと発展した。

 この明治政府は蝦夷地の開拓の方針を三月二十五日「蝦夷地開拓の事宜三条」を議事所に提出、その諮問を求めた。













第一条箱館裁判所被ニ取建一候事。
第二条同所総裁、副総督、参謀人撰之事。
第三条蝦夷名目被レ改、南北二道被レ立置テハ如何(いかが)。




このうち、第一条、第二条は原案の通り決定し、第三条は今少し経過を見る事となった。この過程を経て同年四月十二日仁和寺宮嘉彰親王を以って箱館裁判所総督に任命し、箱館裁判所設置は確定された。さらに副総督には侍従清水谷公考(きんなる)、越前大野藩主土井利恒の二人が選任され、そのほか権判事等も任命された。その後裁判所人事の変更もあって総督には清水谷公考、判事に井上石見(いわみ)(鹿児島藩士)、松浦武四郎(徴士)、権判事に岡本監輔(徴士)、小野淳輔(高知藩士)、堀真五郎(萩藩士)、宇野監物(けんもつ)(徴士)、山東一郎等も任命され、蝦夷地に向かうことになった。 清水谷総督らの一行一〇〇名余は閏四月十四日(閏-四月が、ふた月ある)京都を発し、二十日汽船華陽丸に搭じて敦賀を出帆し、二十四日江差に到着。ここから山東、小野の両名が陸行し、二十六日に一行は箱館に上陸している。

 その前徳広は松前に帰着していたが、清水谷総督がもし松前に上陸した場合は、松前城をもって本営に充てることとし、自らは家老下国安芸の屋敷に仮寓し、ひたすら忝順の意を表していたが、総督の箱館上陸を知った上で松前城に入っている。

 この間に官制の改正があって、同月二十四日箱館裁判所は箱館府と名称変更され、総督の官名も府知事と呼ばれることになった。したがって同年五月一日五稜郭での開庁時点では箱館府であるが、この時点では通 知が届いておらず、「府」として活動するのは五月中旬以降の事である。

 清水谷府知事以下の北下に対する松前藩の態度は、藩主徳広が皇学を学んでいた関係もあり、前藩主崇広の佐幕(幕府を助ける)的思想が一変し、尊王思想の啓発に努めていたので、藩政は新政府側寄の路線に向かっていた。前述のように清水谷府知事の北下の際、もし松前に立ち寄れば松前城を本営とするよう申し入れたり、敦賀出帆の際は用人山下雄城を派遣して道中案内させ、五稜郭には守備の兵員がいないので、戸切地屯営(松前陣屋)の隊長藤原主馬の率いる兵員で守っている。これより先の三月二十八日京都御所守護のため、名代として庶弟敦千代(第十七世崇広嫡男十一歳)に一隊を付し、京都に登り御所の警備に当らせている。

 しかし、一方で松前藩は東北諸藩との佐幕連合にも顔を出している。それは東北地方、北越地方は会津、庄内、越後、仙台等の諸藩に佐幕勢力が強く、これらの諸藩が連繋して政府軍(薩・長連合軍)に徹底抗戦しようというもので、もしこれに参加をしなければ奥州連合に攻撃される恐れがあり、閏四月二十三日に奥州諸藩が白石で会盟を結ぶことになったので、この会盟に家老下国弾正を派遣して日和(ひより)を見させ、さらに一方では秋田に転進中の沢爲量 (ためかず)東山道鎮撫副総督のもとに家臣布施泉を派遣し、藩金六、〇〇〇両を献金する等、正に首鼠(しゅそ)両端を持たすという構えをとっていた。これらは小藩松前家を維持するための藩筆頭家老の松前勘解由崇効(たかのり)等の苦肉の策であったと思われる。