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第四節 館城の攻防と藩主の津軽落

 回天丸に座乗して松前城攻撃を指揮した榎本武揚(たけあき)は、福島まで出迎えに来た第二高雄艦で箱館に帰り、土方を首領とする松前攻略軍はしばらく城下に留まって休養した。しかし、松前藩兵は出来上がったばかりの館城と江差を防禦線として抵抗する気構えなので、若干の兵を残して十日松前を発足した。一方五稜郭からは松岡四郎次郎を長とした一聯(れん)隊二五〇名が同じ日五稜郭を発足し、大野から中山峠に向かった。この両軍団は十一月十五日を期して館城および江差を一斉攻撃する計画であった。

 北上して江差に向かう土方隊は途中で手痛い反撃を受けた。松前藩は小砂子(ちいさご)村と石崎村(共に上ノ国町)の間にある大瀧の断崖を利用し、この西側に蠣崎広胖(ひろかた)、氏家丹宮が一五〇の兵をもって要害を固め、また上ノ国の天の川の西側には北上した藩兵、江差兵を蠣崎民部が総将、鈴木織太郎が副将、田崎東、谷十郎が軍事方となって防禦に当っていた。大瀧の戦は十二日に行われたが、藩兵が善戦したので土方軍はこれを抜くことができず、十五日を予定する館城と江差の包囲繊滅作戦が出来なくなるため、蝦夷地来航時舵の故障していた開陽丸が箱館において修理が完了したので、榎本武揚が座乗し十四日松前に来て駐屯中の陸兵を乗せ、十五日早朝江差に敵前上陸を敢行した。この時、藩兵および江差兵は上ノ国村天の川に布陣して、北上する土方軍を迎え撃つ準備をしていたため、江差は脱走軍によって難なく占拠され、行き場を失った藩兵は、桧山(ひのきやま)を山越えして厚沢部河口付近に逃れた。

 この十五日は館城攻防決戦の日であった。館城は隊長今井興之亟(おきのじょう)、軍事方三上超順が二〇〇余の兵で守り、また、鶉(うずら)村には水牧梅干(ほうや)が隊長となって兵五〇を率い遊軍となった。藩主徳広とその一族は、家老下国安芸、尾見雄三らに守られて、厚沢部河口に近い土橋(厚沢部町)に避難し、しばらく戦況を見守ることになった。大野から中山峠を経て南下する松岡四郎次郎の指揮する一聯隊二五〇は、木間内(厚沢部町)の稲倉石に設けられた寨門で十二、十三日戦闘を行い、十四日には今井興之亟の本隊が俄虫(厚沢部町)街道を北上し、水牧梅干隊は鶉村で挟撃したが兵力不足で館城に退守した。

 十五日朝館城の攻防は降雪のなかではじまり、今井興之亟の本隊は正門、竹田泰三郎が後門(裏門)を守り、富永善五郎は奇兵となって丸山を守った。松井屯、三上超順は中軍となって、二〇〇余の兵力は必死の防戦に努め、果 敢な銃撃戦が展開された。その間に脱走軍の越智一朔外一人が、正門扉の下をくぐって門貫(かんぬ き)を外して扉を開いたため、脱走軍は遂に城内になだれ込み、白雪を散して各所で白兵戦が展開されたが特に軍事方三上超順の働きは目覚しく、脱走軍側も賞讃する程であった。脱走軍側の小杉雅之進による『麦叢録(ばくそうろく)』ではその様子を、







此時敵中一個ノ坊主アリ三上超順ト名乘乱丸ノ中ヲモ恐レズ左手ニ俎板(まないた)ヲ持、丸(たま)ヲ防キ右ノ手ニ刀ヲ閃カシ兵壹両人ヲ切殪(たお)シ我嚮導(きょうどう)役伊奈誠一郎ト戦ヒ、伊奈小銃ヲ以テ防兼シヲ横田豊三郎差図役頭取之ヲ見テ進ミ、近キ力ヲ合セ超順ヲ獲(え)ントテ馳行シニ超順早クモ誠一(郎)ヲ切リ殪シ伊奈頭上三ヶ所ノ大創ヲ蒙リ後病院ニ入癒タリ横田ヲ目掛テ馳来ルヲ豊三郎「ピストール」ヲ以テ立迎ヒ打懸シニ如何(いかが)シタリケン発セズ、之ニ由リ刀ヲ抜ニ暇(いとま)アラズ柄(つか)ニ手ヲ掛聊(いささか)退シニ降積リタル雪ニ蹶(つまず)キ倒ルル所ヲ超順得タリト乘掛リ切付ル、左ノ手首其他多ク創ヲ被ル、此時堀覚之助軍監黒沢正介差図役遙ニ之ヲ見テ飛ガ如ク馳付超順ヲ切斃シ横田ヲ救フ。


とあって、歴戦の猛者達も超順の武者振を賞め讃えている。

 この激戦で隊長今井興之亟が負傷のため自刄するなど一二名の戦死者を出し敗退し、また水牧梅干も俄虫(厚沢部町)の戦いに負傷後退し、のち熊石村の門昌庵で死亡している。この退戦で行き場を失った松前藩兵は、新田主悦(ちから)を隊長として五〇〇余が厚沢部川西岸から乙部村に防禦線を張り、藩主一族を津軽に落とすまでは戦う決意を固めた。

 藩主徳広以下は津軽へ渡海する船を求めて乙部村から熊石村まで船を捜し求めたが、厳寒期で船は皆陸に揚げて冬囲いしているので、海に下すと水船になってしまって使用ができず、遂に和人地界の熊石村支村の関内村に到った。幸いここには目谷又右衞 門所有の中漕船長栄丸(二五〇石)があり、これも水が入るため、海水汲取用の容器と、浮力を増すため、村内からの空酒樽五〇余個を船べりに結び、藩主徳広及び奥方、嗣子勝千代、先主奥方と妹姫、侍女、家老下国安芸、蠣崎民部、尾見雄三、軍事方鈴木織太郎、田崎東、谷十郎等決死の水主(かこ)一五人が操船して、十一月十九日(新暦明治二年一月二日)午後七時ころ、怒涛逆巻く日本海を津軽に向け出帆した。一行は時化の海上を二昼夜漂浪し、ようやく二十一日の夜東津軽郡平館村の津軽藩砲台近くに漂着し、津軽藩兵に助けられて一行が上陸した直後、長栄丸の船体は岩に触れ破壊してしまった。この船中では先主崇広の五女鋭(えい)姫が船酔いで五歳で死亡し、同村の洪福庵に仮埋葬し、また、平館に到着した家老蠣崎民部が涕泣して窮状を訴えた事など今も、この村に当時の悲惨な状況が語り継がれている。

 津軽藩の手厚い介護を受けた一行は二十二日平館を出発し、蟹田、浪岡と泊り、二十四日弘前に入り、同地の薬王院を仮営として、太政官に次のように避難届を提出した。








今般脱走の賊襲来に付家来共より御届申上置候通り苦戦尽力仕候得小藩微力防禦行届兼一旦津軽弘前に引揚け同所薬王院に謹慎罷在候間此段御届申上候。以上。



辰十一月二十五日





松前 志摩守





弁事 御中





(『松前神社御神宝恩賜御太刀奉納誌』)



 藩主徳広はこの戦争中持病の肺結核が亢進し、輿(こし)に乗って土橋村(厚沢部町)から乙部村に到る間も、ほとんど正気がなく、うわごとを口ずさんでいたというが、薬王院に入ってからは近侍を退け、欝(うつ)々として沈痛していたというが、肺結核の病状も悪化して心神消耗し、さらに敗戦の悲痛、難航の積労等も重なり、遂に十一月二十九日二十五歳の若さで自刄を遂げた。その遺書には、








此度不慮の義に付福山城は賊徒の爲め被掠奪此処迄落延未た聢と回復の策無之処身体病弱且懶惰(らいだ)の性貭寸功も無之長存候事奉対

皇上無面目此処に而自尽相果候もの也。



徳広





(前同資料)



とあるが、この自刄には疑問が残る。松前藩公用人島田興より太政官へ提出した記録『亡父徳広遺骸福山表江護送神葬祭仕度奉願候書付』(函館市中島良信氏所蔵)によれば、







當藩知事兼広父徳廣儀旧冬流賊侵掠之砌屡々及苦戦候得共、衆寡不敵一旦難を青森に避け久保田、弘前之両藩を始め勤王之諸藩と申談、援兵を請再ひ松前地江押渡り城邑回復可仕画策之折柄憤懣之餘り鮮血口中に溢出終に十二月廿五日於陣中死亡仕候。依之弘前藩江茂申談、同所長勝寺境内江假葬仕置候。…以下略…




とあるように、鮮血口中に溢れ出、つまり肺結核の喀血で死亡したもので、前記資料の「自尽相果 候もの也」の記録は明らかに作為的なもので、藩主が戦に敗れて避難しているときその藩主が血を吐いて死亡したということは、新政府に対して面 目も立たず、そのため藩重臣達が協議して、この遺書を作製させて新政府に届け出たもので、死亡の日も十一月二十九日であるのに、嗣子兼広が四歳で後嗣としては問題もあり、十二月二十五日死亡と届け出たものと思われる。