新サイト用




















第一節 ニシン漁業の興廃と代替漁業

 道南和人地に住む漁民達にとってニシンは重要な資源であり、一年の計は主にこのニシンによって賄われていた。このニシン漁業については第二編第三章第一節で詳述したが、幕末の年代には、このニシン漁業の様相も若干の変化を見せて来た。天明八年(一七八八)、天保三年以降十年迄(一八三二~三九)のこの二回は東北三大飢饉の年であったが、特に蝦夷地においては、それまで豊漁の続いたニシン漁も凶漁で、例年ならばこの漁によって安易に過ごせる漁民は、入米が少なく、入っても例年の一〇倍もする米価では主食に窮し、干鱈たらや昆布を搗いて粉にして製したオシメ昆布に雑穀を交ぜて糊口をしのぐという状況であった。

 この天明の飢饉以後ニシンの豊凶が、その年によって異なり極めて不安定な漁業となってきた。翌寛政元年(一七八九)もニシン漁業が不漁となったため、江差・乙部・熊石付近の漁民達は、その原因は奥地場所の請負人達が投資を拡大して、各場所に大網(笊(ざる)網)を使って大量 のニシンを獲り、これの加工に手が廻らないので、簡単に加工できる魚粕にして売り出すために資源が枯渇してしまったから、この大網を禁止するよう藩に願い出、もし、願望が容れられなければ実力行使も辞さないという態度をとったので、藩も事態を重視し、大網の使用禁止を命じている。

 この禁令は守られず場所請負人達は密かにその場所で大網を使用していたので、奮激した熊石村外八か村の漁民五〇〇人が徒党を組み、安政二年(一八六六)西蝦夷地の近場所や中場所(積丹半島付近まで)へ船々に乗り込んで北上し、大網を切断して廻るという事件があった。

 このように蝦夷地の中でも渡島半島の和人地はニシン漁業が不安定であったのに対し、それより以北の積丹半島までの口蝦夷地、さらにそれより石狩川付近までの中蝦夷地、さらにそれより以北の奥蝦夷地は比較的不漁も少なく安定していたので、これに目を付けた福島の漁民達が比較的に古い時代から、この中蝦夷地方面 にニシン取として出稼している。

 常磐井家所蔵『戸門治兵衞旧事記』では、次のように記されている。








天明六年(一七八六)

当村天明六年之頃市右衞門ヲタスツ場所江壱艘鯡(にしん)取参候。一(なかいち)場所ニ而同印仕入ニ而一ケ年ニ四百本、五百本取申候。佐五右衞 門高嶋江同七年之頃参候。別而宜敷御座候。


歌棄(うたすつ)は十佐藤(かくじゅう)栄右衞門の請負場所であるが、一印(なかいち)は住吉屋西川准兵衞 (近江商人)である。したがって□一印(なかいち)住吉屋の仕入を受け、十印(かくじゅう)佐藤屋の請負場所で追鯡 漁の出稼をしていて、四~五〇〇本の身欠鯡や胴鯡を得たという。ニシンの一本はニシン一把一〇〇本で、これを二十八把入、つまり二、八〇〇本入を莚包にしたものが一本であるから、四〇〇本でも百万尾以上のニシンを獲ったことになる。したがってこの追ニシン漁は地元地先でニシン漁をするより収入も大きく、安定しているので、皆先を争って出稼をするようになった。

 前同『戸門治兵衞旧事記』では、寛政元年(一七八九)尾足内(小樽内)マサリ称宜(ねぎ)場所に大願主笹井庄右衞 門が稲荷大明神の社殿を建立したが、その時の神主は笹井日向正佐波が勤めたと記されており、さらに常磐井家の『福島村沿革』では「神主常磐井(笹井)武雄村人数名ヲ連レ小樽マサリニテ漁場ヲ開ク、同年稲荷社ヲ建立セリ」とあって、笹井家別 家庄右衞門や神主笹井佐波らがこの場所に出稼していた事が分かる。マサリ場所とは現在の小樽市朝里町で、この町には当時建立した稲荷神社が残されている。『福島町史第一巻史料編』の『白鳥氏日記 第一巻』(二四一~四三頁)にある如く、神主である笹井佐波が半年もの間神主の職を放擲(てき)して遠蝦夷地へ鯡 取に出稼するのは甚だ不届であり、さらに船を新造して本格的操業をしようとするのは言外であると、神道触頭(ふれがしら)白鳥遠江から神道裁許を取り消すと、お叱りを受けたのはこの時である。その後神主笹井家はこの追鯡 漁を止め、福島に留まり、ニシン漁期には前浜刺網漁業者の組に入って操業している。

 これら追鯡漁業者は二(に)・八取(はちとり)とも呼ばれていた。それは場所請負人の占有している場所に入漁する場合は、先ず予め場所請負人の許可を受け、数人が組となって乗替船(五~七人位 乗)、図合船(六~九人位乗)等の小型船に食糧、漁網等を積んで場所に行き、操業の上製品の二割を場所請負人に納めるので、二・八取と呼ばれていた。

 これらの漁場のうち増毛、留萌、苫前等の奥場所は殆どが開発されていないので、これに着目した福島を代表する漁業者であった花田伝七、中塚金十郎らが、安政年間以降場所請負人栖原六右衞 門の同意を取り付け、花田は鬼鹿(小平町)、中塚は天登雁(小平町)で漁業を始め、以来営々努力して北海道を代表する漁業家となった。河野常吉編になる『北海道史人名彙下』によると、








はなだ-でんしち 花田 傳七

本道屈指の漁業家なり。先祖傳七姓を上林と称し、芸州広島の郷士たりしが、享保十五年故ありて南部盛岡に移り、後、渡航して、松前郡福島村に住し、姻族の氏を冒して花田と改む。子孫世々傳七と称し、松前藩の陣屋を勤む。数代の後漁業を始む。其子傳七、幼名を治三郎と称す。天保元年七月を以って福島に生る。奮励多年、該地方屈指の漁業家となり、次で西蝦夷地留萌場所鬼鹿に出稼して、漁場を開く。文久三年一家挙げて、鬼鹿今の鬼鹿村大字天登雁に移り、更に進んで宗谷・利尻等に漁場を設け、巨利を博し、天塩国有数の漁業家となれり。傳七性孝順にして公共の念篤く、村総代其他の公職に就きて功績多し。安政年間松前藩主より其の孝心を旌表して青緡(あおさし)三貫文を賞賜せられ、明治二年三月苗字帯刀を許さる。…以下略


とあって、この鬼鹿場所を開拓し、これを足場に宗谷、利尻島等の奥場所の開発と、その成功によって厖大な産をなして行く、花田傳七の姿をよく表現している。また、今一人の同地方開拓者である中塚金十郎についても、前掲同史料では、








なかつか-きんじふらう 中塚 金十郎

漁業家なり。渡島国松前郡福島村の人。文政八年を以て生る。父も亦金十郎と称し、年々西蝦夷地小樽内場所字熊確(くまうす)に出稼し、差網を以て鰊を漁す。金十郎天保十一年十六歳にして父に従ひ、熊確に出稼せしが、会(たま)々三四年間薄漁のため損失を来し、終に漁具を挙げて他人に交付す。是に於て金十郎薪を採り炭を焼き、之を福山に運搬売却して、僅に生計を立て、再び差網五六放を準備し、熊確に出稼せしに、相応の漁獲あり。次年には差網を増して、十余放となし、安政三年には五十放となり、漁夫数名を雇使するに至る。五年苫前場所字天登雁(てんとかり)に出稼し、荒地を拓き漁場を設け、建網一統を以て鰊を漁す。以後年々同地に出稼をなし、明治十二年迄は毎年概(おおむ)ね鰊四百五拾石を収獲し、…以下略


とあるように、初期には小樽内場所の熊確でニシン差網を立て、さらに鬼鹿村で隆々辛苦して漁場主となってゆく過程をよく表現している。

 このように福島村や吉岡村の村民達は幕末以降留萌場所中の天登雁村と鬼鹿村(共に小平町)、苫前場所中の力昼(りきびる)村(苫前町)の三村に集中していて山口藩の明治四年戸口調(『小平町史資料第一編』)によると、天登雁、鬼鹿村永住者中の福島、吉岡村出身者は、次の人達であると推定される。








阿部 甚衞門

笹井 安二郎

中塚 金十郎

阿部 久吉

花田 清左衞門

住吉 安蔵

荒関 孫六

阿部 藤次良

福士 藤次良

花田 傳七

雇 十六人

雇 二十一人

雇 三十二人

雇 二人内女一人

雇 二十人

雇 二十三人

雇 十九人

雇 十三人

雇 十九人

雇 二十六人


等で、しかも多くのニシン場雇を使役している。この名簿のほかに鳴海辰六、横内兼吉、福士儀兵衞 等もあると思われる。

 一方苫前場所中の力昼(りきびる)村は『苫前町史資料第二編』から摘出すると福島、吉岡村の漁業経営者で明治初期までに漁場を開いたものは、金沢友次郎、畑中藤吉、畑中佐助、福士傳吉、福士覚右衞 門、福士儀兵衞、福士栄吉、金谷五郎、奥山善四郎、笹森長太郎、金谷松五郎、住吉幸太郎、白符子之松、花田六右衞 門、金沢藤吉、永田七蔵、原田駒太郎であったと推定される。これらの人達の発展状況を河野常吉『天塩国調査』(明治三十年調査)によると、

























力昼村 大谷源蔵氏(より聴取)
一、村内平均二万石ノ収獲アラサレバ不可ナリ。二万四五千石ナラザレバ善シト云フ能ハズ
一、福島、吉岡人多シ。越年者デ建網ヲナスハ三戸ノミ。
一、安政四年頃ハ出稼人ハ盛ナラン。字力昼ニ観音アリ。其台ニ安政四年支配人伊助ト彫刻シアリ。福島(金沢彦次郎ノ父?)最早ク、荒関孫二郎(今居ラス鬼鹿也)次テ来レリト。
一、
当地ヨリ天登雁ハ三年二年ハ宜シカラン。澗ハ大ナルモノナシ。ノ前ニ自分ノ枠位 入レ得ル所アリ。

(四項略)
一、













大漁業者   
金沢友次郎福島
角四

建三
(内二ハ試験)
福士 儀平福島
角二

建六
 
畑中 藤吉福島
角一

建一
 
福島、吉岡ノ人ニテ原籍ハ大抵当地ニアレ共漁期終レハ帰去ル也。

茶俊内ト力昼トウエンビラノ三区ニ分チ海鼠ヲ引カシム。
一、
金沢、福士二人が仕入主ナリ。羽幌、苫前マデ及ブ。畑中モ多少仕込メリ。小樽辺ヨリ青田ニテ資金ヲ仰クモノ二三戸アリ。

(以下略…)


と、両村からの出身者が、これら出稼先村々の経済を牛耳っていたことを記している。

 この出稼者達は、先人もかつて経験したことのない奥蝦夷地への場所開拓のための出稼は、正に決死の勇が必要であった。旧正月を越えてすぐ、一〇〇石、二〇〇石の小帆船に、漁具や食糧を積んで、怒涛逆巻く日本海を北上するのは決死の覚悟でなければできなかった。当時の想い出を、先祖が福島出身である金谷丹次郎は、『小平町史資料第二編』のなかで、次のように語っている。








 (一) 帆船・蒸汽船・宿(はたご)



字広富 金谷 丹次郎



帆船渡航時代

 旧鬼鹿村へ本州人が初めて来たのは和歌山県(旧紀州藩)の栖原村の角兵衞 なる者の手代小右衞門と云う人が天明の初め番屋の澗(現広富)にて鰊とりをしたのが初めてと云ふことです。その後道南地方を主として東北地方などから来村の者が多くなり鰊漁業を主とした村づくりにより鬼鹿村が誕生したのでありますが、鰊漁業の興亡については確実な資料が残っていることでしょうから、私が先祖から口伝されている帆船渡航時代のことを記憶によって記したい。

 私の家◯ロ(ゼン)印金谷家は、何百年前より松前郡福島村(現町)を根拠地として鰊漁業を主体とした漁業を経営しており鰊の北上と共に、慶応元年より旧天登雁村に来村して建網漁業をした草分けであった。その頃は二、三百石位 の番船又は弁才船で漁具や食糧などを満載して福島港を出帆致すのは旧暦の小正月だったそうです。当時としては魚場所行きと云へば遠い外国へ行く様なもので、下着を取替へ妻子と水盃をして、髪を結い直して乗船したものだそうです。それでも各番屋の船共々何十艘の船が屋号を染めた大漁旗や吹流しを建てて勇躍出港する様は現在の北洋へ向う船団にも似ていて海の男の晴の場所でもあった。そして松前郡、檜山郡、爾志郡、寿都郡、岩内郡と海岸沿いに日和を見て帆走し、時化るとみれば最寄りの澗に入り積荷を陸揚して船を捲き揚げ、粗末な丸小屋を建て枯木や枯イタドリをたいて炊事をしながら凪待ちをし、また帆走して神威岬まで来て航海中最大の難所である世に云う「神威渡」の日和を待つのである。ひと度出帆致せば戻ることの出来ない大石狩湾、船団は慎重に日和を待たねばなりません。満天の星がきらめき岩内湾から俗に云う寿都物が強く吹き出して北へ向うには追い風だ。この風を利用して石狩湾の中程まで行けば次は石狩物が出している筈だ。船団の打合せが出来て、お神酒が海にそそがれ全員盃を酌み交し、そそり立つお神威様に航海の安全を祈り帆を捲き揚げて次の寄港地ルルモッペの川港まで直行する。そこで上陸の準備をして日和がよければ留萌出し、小平しべ出しを利用して鬼鹿の各番屋澗に直行して苦労を重ねた長途の船旅を終へるので、時化の多い年は一ケ月近くもかゝったそうであります。私も後年この航路を何度か機械船で航海したが、その昔小さな帆船で天気予報も何もない時代によくぞこの遠方まで来航したものと、その開拓者魂に敬服致したものであります。漁場が終ればこれと逆の航海をして帰ったものだが、帰途は初夏でもあり往路の様な苦労も無かったことと思います。蒸汽船渡航になってからは、福島、鬼鹿間は十八時間から二十時間位 のものであった。

(以下略…)


 一方福島地方に残った人達は、磯舟や三半船に刺網一放か二放を、三、四人が組んでニシン取をするという小前の漁師が多かった。常磐井家の『慶応元年日記』(一八六五)によれば、








三月十五日

明七ツ頃(午前四時頃)細澗之沖ニ而鯡くぎ拙者釜谷之仁太郎両人組ニ而漸三樽計(ばかり)取、鯡 ハうす鯡ニ而多取不申、名主元兵衞御上様江献上仕、御上様御尋被成元兵衞 申上候ニハ、福島領細澗の沖ニ而くぎ依而献上申候。


と、この年のニシン漁が期待した程ではなかったようである。前にも記したがニシンは津軽海峡中央部を東から西に向かって北上し、矢越岬から白神岬手前の明神崎に突き当って、福島湾内に逆戻りして、釜谷(字塩釜)沖から体勢を立て直して松前方面 に向かうが、細澗はその中間の慕舞沖のそりである。

同日記の慶応二年の記録では、








三月十二日

福島領しとまへ崎漁少し鯡くき申候。

拙者仁印組ニ而少計取。

三月十八日

吉岡滝ノ澗鯡少シ群来申候。

三月十九日

干潟(ひかた)泊り、川尻沖ニ而鯡群来大漁。


とあるようにその年によって豊凶が繰り返され、一度凶漁年となれば、食にも事欠くということもあって、奥蝦夷地への出稼者が増加して行った。

 それに引替えイワシ(鰯)漁業が比較的豊凶年もなく安定していた。この漁は近世初頭では網を用いず、海岸に寄ったイワシを拾うという状況であったが、中期末の時代に入って鰯網が導入され、毎年秋にこの漁業が行われるようになった。釜谷村に塩釜神社が建立されたのは、常磐井家文書『福島村沿革』では、







「安永元年(一七七二)塩釜神社ヲ建立、以前今ノ大澗へ製塩所ヲ造ル、塩増栄ノ爲メ該社ヲ建立セラレタリトイフ」


となっていて、鰯漁業が始まり塩鰯を造るため塩が必要であるが、高価なため自家製塩をして、これを利用し、塩釜神社を祀ったといわれているので、この建立時前のころに鰯漁業が始められたと思われる。

 その後着業者も増え、『戸門治兵衞旧事記』によれば、











享和二年(一八〇二)

一、當村支配之内赤川と申処江鰯引小網壱投相立申度、御礼金小判一両上納仕段。

享和二年七月



福島村 






願人 与惣兵衞

名主 達右衞門


とあって、福島村の与惣兵衞が名主住吉屋達右衞門の奥書を付し、鰯引網を一年一両の御礼金をもって着業したいので許可を願いたいと許可願を提出しているのを見ても、この頃からの着業者が増えて来たと思われ、幕末には原田治五右衞 門、花田六右衞門、花田傳七、中塚金十郎等も着業していたようである。

 鰯漁業は、福島、月の崎、釜谷の前浜が中心漁場で、月の崎から浜中にかけては多くの鰯浜納屋が造られていた。この漁は十月、十一月が中心漁期となるため、ニシン場出稼の漁業者の帰村後に行われるため、越冬用生活費補完のためにも重要なものであり、したがって漁業者は大きな関心を寄せていた。







福島村前浜の状況






 正月福島神明社笹井家の獅子神楽門祓の際は必ず、この鰯浜納屋も御祓いをしてもらう慣例となっていたほか、毎年九月には、「当村鰯取中願ニ付、前浜鰯漁業之御神楽月崎殿ニ而御湯立御神楽」と鰯取浜清め御神楽を行った上で着業していた。箱館戦争の際の明治元年十一月一日松前藩五〇名が隊長渡辺々の引率のもとに、福島村から鰯枠船三艘に分乗して小谷石村に上陸し、知内本村に夜襲をかけているが、その際はこの鰯漁に従事していた人達が櫂を漕いで行ったものと思われる。このようにして幕末のころは不安定なニシン漁業を、補完する漁業として鰯漁業が盛んであったが、その生産量 についての史料はない。

 また、イカ(柔魚)釣漁業も幕末の頃から盛んになった。マイカは日本海沿岸の富山湾から佐渡島にかけ多く生産されていた。道南地方にも多く廻游していたが、その漁法、加工法も知らなかったので、販売品として加工せず、専ら自家用に用いる程度であった。

 安政元年(一八六四)箱館が開港されて、のち貿易港となり、箱館に産物会所ができると、それまで蝦夷地物産の串貝、干鮑(あわび)、海鼠(いりこ)等が、松前藩の専売品として長崎に送られ、俵物(たわらもの)として清国貿易に振向けられていたが、箱館開港によって箱館産物会所がこれを扱うことになり、俵物に鯣(するめ)も加わったことにより、従来着目されなかったこの漁業が需要の拡大によって盛んになった。最も早く着業したのは小谷石村といわれるが、確証はない。平尾魯遷(津軽・弘前の人)が安政四年(一八六七)松前から箱館に向かう途中の記録『箱館紀行』には、礼髭村(字吉野)で婦人がイカ干納屋にイカを干している図が描かれているので、この期には漁業として定着していたと思われる。