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第五節 常磐井氏・戸門氏の定着 |
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福島村の草分けの一人に常盤井家と戸(土)門家がある。常盤井家は近世初頭福島神明社の神職として現在までに十六代を数え、福島村の成盛発展に貢献してきた家柄である。また、戸門家は初祖戸門治兵衞 が中世末に福島村に定着し、以来累代村名主を勤めて、村政維持に当り、『戸門治兵衞 信春旧事記』を残している。 常盤井家には詳細な『常盤井家系譜』が存在するが、それによると、常盤井家の初祖は常盤井治部大輔藤原武衡(たけひら)である。その系譜によると、武衡の略歴は次のとおりである。
と記されている。これは中世より近世初頭にかけての常磐井家系譜から摘記したものであるが、しかし、この系譜については大いに疑義がある。 この系譜は、常磐井家第十四代常磐井武知の筆記、編述になるものである。常磐井武知は十三代笹井武胤(たね)の子で、武胤は福島大神宮の宮司として明治から昭和年代まで活躍した常磐井秀太の兄で、常磐井家の本家筋に当り、当初福島大神宮宮司となったが、明治二十六年それまでの姓笹井を常磐井と改姓し、さらに明治四十一年八月福島大神宮宮司を弟の秀太に譲り、花畔(ばんなぐろ)神社(石狩町)に移り、さらに利尻島に移住している。この利尻町の常磐井家の系譜が前出の史料であって、同家の十四代武知(たけとも)筆記になるもので、この筆記年代は昭和年代の前期と思われ、極めて信憑性(しんぴょうせい)が薄く、その出典も明示していない。 福島常磐井家に残る史料は文化四年(一八〇七)以降の物で、それは文化四年一月一日福島神明社から出火して、本殿、拝殿、居宅の総てを焼失し、その以前の書類は一切残されておらず、現在残されている史料の多くは同家十二代笹井参河正武麗(たけあきら)の筆になるものが多く、口伝や諸史料を組み合せて武麗によって創作され、さらに福島町に残されている『福島村沿革』も大正十年常磐井秀太によって作製されたものである。 従って常磐井家の出自については、故常磐井武季筆『正統松前神楽』によれば、常盤井家は京都の常盤井の地名から生れた、神楽を司る堂上の家系であるとし、また、その遠祖は常盤井大政入道藤原実氏としており、また遠祖より近江国の一城主であったが、永禄年間より天下大いに乱れ数軍利を失い城を落され奥州にくだり天正元酉年(一五七三)八月一五日南部野辺地より渡海し福島に住居す。館古山に館を構え、家臣浅井連政(浅井長政の血族)、袴田七右衞 門と共に数々蝦夷と戦端を開いたといっている。 常磐井氏が近江国の一城主で浅井氏とかかわりあるとすれば、中世近江国守護職佐々木六角氏、京極氏の武将、城主の名簿にその名があるはずであるが、徳永眞一郎筆の『近江源氏の系譜』等にはその名もなく、その出自は不明である。中世蝦夷地に入った神仏の奉斉者は、松前八幡社の白幡祢宣(ねぎ)は別 とし、馬形社、熊野社、羽黒社、宮歌八幡社、白符神明社、知内雷公神社等は天台もしくは真言宗の修験僧から、近世初頭以降になって神職者に転身しているものが多く、常磐井氏も同様であったと考えられるが、いずれにしても福島村の開村と深いかかわりを持った家である。 さらに常磐井氏と共に福島村の古百姓といわれる家に戸門家がある。この家に伝わったといわれる史料に『名主戸門治兵衞 信春旧事記(くじき)』が福島大神宮に保存されているが、しかしその内容は、神事に関することの集大成で、記録の書体からすると、常磐井家十二代笹井参河正武麗(たけあきら)の筆になるものなので、この記録は近世以降の諸記録から摘記したもので、福島への定着過程は記されていない。 松前藩が蝦夷地を上知され梁川(福島県梁川町)に移封する際、幕府の松前奉行に引き継いだと思われる『村鑑-下組帳』で、この戸門家を「古百姓 大永之頃 書物代暦(歴)不知、其外書物品々、治兵衞 」とあって、戸門家の初祖治兵衞が大永年間(一五二一~二五)頃に福島に定着し、多くの書物等もあると記している。この記録からすれば戸門家は常磐井家より五十年程早く福島村に定着している。近世初頭に入り村治方式が整った段階で戸門家は代々村名主となる名家でもあったが、その出自は不明である。 |