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第五節 常磐井氏・戸門氏の定着

 福島村の草分けの一人に常盤井家と戸(土)門家がある。常盤井家は近世初頭福島神明社の神職として現在までに十六代を数え、福島村の成盛発展に貢献してきた家柄である。また、戸門家は初祖戸門治兵衞 が中世末に福島村に定着し、以来累代村名主を勤めて、村政維持に当り、『戸門治兵衞 信春旧事記』を残している。

 常盤井家には詳細な『常盤井家系譜』が存在するが、それによると、常盤井家の初祖は常盤井治部大輔藤原武衡(たけひら)である。その系譜によると、武衡の略歴は次のとおりである。








氏神、 天児屋根命(あまこやねのみこと)、 天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)、天種子命(あめのたねこのみこと)より十九世大職冠謙 (鎌) 足公の末流遠祖より、 近江国一城主なり、 城所郡郷不詳、 永禄元年頃 (一五五八) より天下大に乱れ、 数軍利を失ひ、 城を落され奥州にくだる。 元正元酉年 (一五七三) 八月十五日南部野辺地より松前に渡海し、 福島村に居住す〈旧跡館古山と唱ふ〉、同三年五月十三日蝦夷館大将クジラケン乱を起し、 武衡是を討亡す、 此処に於て當国大いに平和となる。館の沢に塚あり、クジラ森と唱ふ。領主季廣公、 禄を以て召せども、 二君に仕へず、 例え国の爲とて、 地頭体にて、村長むらおさを相勤め、 慶長八年 (一六〇三) 癸卯年九月二十七日六十歳にて神去。

武衡妻麻佐。 宇摩治命(うまじのみこと)の苗裔(びょうえい)、守屋大臣(もりやおおおみ)の末流、 浅井新太郎物之部連政(つれまさ)二女なり、 慶長十六年 (一六一一) 亥年五月十二日六十三歳にて神去せり。

 二代 常磐井大宮藤原武治

武衡(たけひら)長男なり、 母は浅井新太郎物之部連政二女なり。領主松前慶廣公の命に依り、地頭体にて村長を勤め、 元和元年 (一六一五) 戌午(ママ) 午年二月十一日四十三歳にて神去。

妻は梅宮右近 橘材喜(たちばなもとよし)一女喜智(きち) 、 慶安三年 (一六五〇) 庚寅七月一日七十歳にて神去。

 常盤井宮太郎藤原相衡(つねひら)

武治の長男なり、母は梅宮右近材喜の一女なり。相衡幼少にして才智優れ、武道に達し、元和四年 (一六一八)、十七才の時、松前長門(ながとの)守利廣に奉仕し、利廣公隠謀を企て、露顕して家名をて、大日本国へ逃げ渡る。相衡之に同行し、其の行跡不詳、此の代に常磐井武衡より、以前の系譜を相衡持ち去りしに因よりて不詳故に不能記。

 三代中興元祖祠官笹井今宮藤原道治(みちはる)

常盤井武治二男なり。 母は梅宮右近橘材喜の長女なり。 常盤井元祖より代々福島村館古山に居住し、 道治幼少より敬神の志深く神学に達し、 寛永十六年 (一六三九) 己卯九月二十一日村中心を同じゆうする者協力して、 神明社を再建し此処に始めて神職となる。 同二十年九月十六日初雪の頃今の居宅を、 大笹原を開墾して、 笹葺の家を造り、 館古山より引移る。 住居の地内より笹掻(か)き分けて、 山川の清溜を汲む。 村人誰言ふとなく笹屋、 笹家と称ふ。 遠祖より代々常盤井と号すれ共、 笹は四季色香不変にして、 萬代不窮の常盤なるものなるを以て常盤も笹も同意なるに因り、 常盤井の井を取りて笹井と改む。 慶安二己丑年 (一六四九) に至り、 村民神明の御徳を畏み、 同年九月信者挙って拜殿を再建し、 其節領主高廣公、 家臣蠣崎右衞門大輔より右次第申立御聞に達し、 則ち領主の命に因りて福山神明社より小の神鏡を福島神明社へ迎ひ奉り、 初めて御見聞を爲す。 同月十六日遷宮執行、 是より改めて神職永久の家となる。 正徳甲午年 (四年|一七一四) 八月上京、 吉田殿継目許状相ひ請、 領主矩廣公に宮届けの御礼申し上げ奉り、 享保四己亥年 (一七一九) 九月二十七日行年百三歳にて神去。

妻は土師(はじ)冨之助菅原長徳の長女美喜、 宝永五戊子年 (一七〇八) 八月十四日七十五歳にて神去。




と記されている。これは中世より近世初頭にかけての常磐井家系譜から摘記したものであるが、しかし、この系譜については大いに疑義がある。

 この系譜は、常磐井家第十四代常磐井武知の筆記、編述になるものである。常磐井武知は十三代笹井武胤(たね)の子で、武胤は福島大神宮の宮司として明治から昭和年代まで活躍した常磐井秀太の兄で、常磐井家の本家筋に当り、当初福島大神宮宮司となったが、明治二十六年それまでの姓笹井を常磐井と改姓し、さらに明治四十一年八月福島大神宮宮司を弟の秀太に譲り、花畔(ばんなぐろ)神社(石狩町)に移り、さらに利尻島に移住している。この利尻町の常磐井家の系譜が前出の史料であって、同家の十四代武知(たけとも)筆記になるもので、この筆記年代は昭和年代の前期と思われ、極めて信憑性(しんぴょうせい)が薄く、その出典も明示していない。

 福島常磐井家に残る史料は文化四年(一八〇七)以降の物で、それは文化四年一月一日福島神明社から出火して、本殿、拝殿、居宅の総てを焼失し、その以前の書類は一切残されておらず、現在残されている史料の多くは同家十二代笹井参河正武麗(たけあきら)の筆になるものが多く、口伝や諸史料を組み合せて武麗によって創作され、さらに福島町に残されている『福島村沿革』も大正十年常磐井秀太によって作製されたものである。

 従って常磐井家の出自については、故常磐井武季筆『正統松前神楽』によれば、常盤井家は京都の常盤井の地名から生れた、神楽を司る堂上の家系であるとし、また、その遠祖は常盤井大政入道藤原実氏としており、また遠祖より近江国の一城主であったが、永禄年間より天下大いに乱れ数軍利を失い城を落され奥州にくだり天正元酉年(一五七三)八月一五日南部野辺地より渡海し福島に住居す。館古山に館を構え、家臣浅井連政(浅井長政の血族)、袴田七右衞 門と共に数々蝦夷と戦端を開いたといっている。

 常磐井氏が近江国の一城主で浅井氏とかかわりあるとすれば、中世近江国守護職佐々木六角氏、京極氏の武将、城主の名簿にその名があるはずであるが、徳永眞一郎筆の『近江源氏の系譜』等にはその名もなく、その出自は不明である。中世蝦夷地に入った神仏の奉斉者は、松前八幡社の白幡祢宣(ねぎ)は別 とし、馬形社、熊野社、羽黒社、宮歌八幡社、白符神明社、知内雷公神社等は天台もしくは真言宗の修験僧から、近世初頭以降になって神職者に転身しているものが多く、常磐井氏も同様であったと考えられるが、いずれにしても福島村の開村と深いかかわりを持った家である。

 さらに常磐井氏と共に福島村の古百姓といわれる家に戸門家がある。この家に伝わったといわれる史料に『名主戸門治兵衞 信春旧事記(くじき)』が福島大神宮に保存されているが、しかしその内容は、神事に関することの集大成で、記録の書体からすると、常磐井家十二代笹井参河正武麗(たけあきら)の筆になるものなので、この記録は近世以降の諸記録から摘記したもので、福島への定着過程は記されていない。

 松前藩が蝦夷地を上知され梁川(福島県梁川町)に移封する際、幕府の松前奉行に引き継いだと思われる『村鑑-下組帳』で、この戸門家を「古百姓 大永之頃 書物代暦(歴)不知、其外書物品々、治兵衞 」とあって、戸門家の初祖治兵衞が大永年間(一五二一~二五)頃に福島に定着し、多くの書物等もあると記している。この記録からすれば戸門家は常磐井家より五十年程早く福島村に定着している。近世初頭に入り村治方式が整った段階で戸門家は代々村名主となる名家でもあったが、その出自は不明である。