第四節 松前神楽の発祥と展開 | |||||||||||||||||||||||||||||||
神楽とは「(1)鎮魂を目的とした呪術(じゅじゅつ)。平安中期、宮中の神事用の音楽としてまとまる。現存する神楽歌は約九十首。はじめ宮廷外の人が宮廷に参上した神事芸。(2)里神楽ともいい、民間の神社で祭礼の時行われる。仮面 をかぶり、笛、太鼓、鉄拍子に合わせ、無音で舞う。祓(はらい)の行事から演劇的に移行したもので、特に江戸後期に発達。」(『角川日本史辞典』)とある。また、さらに詳しくは、「神道と関係を持ち鎮魂を目的とした呪術に神楽があるが、この神楽が平安時代中期には宮廷神楽として発展するが、これと併行して伊勢あるいは出雲等の大社を中心とした神楽式ができ、さらに田楽を主体とした里神楽が近世前期以降我が国全域にわたって流行する。特に東北地方では番楽と山伏神楽の二大系流がある。…北海道の松前神楽などそれぞれの地方で同類を伝波普及していた。」(『平凡社世界大百科辞典No.四』)とあって、この神楽の発祥と地方浸透の過程を論じている。 中世蝦夷地に勧請された寺社の多くは、神仏混淆したものも多く、その奉斉者も出羽三山の天台、真言宗から発した山岳信仰の修験者(山伏)が多く、これらの人達が、十三湖の阿吽寺、山王社、深浦円覚寺、恐山等を足場として当地方に進出しているので、初期の神、仏教は奥州北部と深い係わりを持っている。この修験者達は、出羽三山に発達した山伏神楽の伝承者でもあったので、中世の蝦夷地では、山伏神楽が普及していたものと考えられる。 初期の松前神楽は近世初頭に発祥したといわれるが、そのさきがけとなったと思われる記録が若干ある。『新羅之記録・下巻』によれば、松前家六世藩主盛広が家督前の天正十五年(一五八七)京都に越年し、太鼓打観世与左衞 門尉の子与十郎の弟子となって太鼓打を習い、その名手となったといわれている。これは観世家の能楽を主体とした太鼓であると考えられ、直接神楽と結び付くものではないが、伏線とはなり得るものである。さらに慶長十九年(一六一四)松前家五世慶広(初代藩主)の四男数馬之介由広が大坂方に組して反乱を起こそうとした際、七世公(きん)広に近侍していた太鼓打樋口石見の弟子で、江州八幡山の住人大塗師屋(ぬ しや)与四右衞尉が、これを留めたとあるので、七世公広も音曲や神楽には理解を示していた一人であると考えられる。 寛永二年(一六二五)夏六月松前八幡宮が建立された。同史料によれば「福山城の北方に新たに御宝殿、同じく拜殿并に神楽屋を造営し、四方に築地を構え、其内に松樹花木を植え交え、高く鳥井を立て、八幡大菩薩を六月十五日の良辰に遷宮し奉るなり」(原漢文)とあって、この寛永二年に神楽殿が新築された記事が、松前藩の神楽に関する記事の初出であるが、ここで斉行された神楽が松前神楽であるという根拠はない。 和賀白鳥家(八幡社司-神道觸頭)の『御社記』(天明八年筆)によれば、同家は、
とあり、修験者である白鳥家は八幡社の社司職に任命されたとあるので、この時点で建立された神楽は山伏神楽を主体としたものであろうと考えられる。 松前神楽と福島との深い係わりを示す史料として、常磐井家所蔵の『福島沿革史』があり、その中に、
と記していて、これが松前神楽の始まりであるとされている。しかし、この記録が正確なものであるとするならば、当然福島の最古の記録である『戸門治兵衞 旧事記』の中にこの記事が掲載されているべき筈であるが、全く記載がない。さらにこの時代は常盤井氏であった筈が、常磐井という明治二十年ころの氏名が記入されていて内容にも誤りがある。『福山秘府』(年歴部・五)によれば、「寛文二年夏六月二十日日並出。日一作月」とあって、日月に異変があったのは六月であるとしているので月が合わない。また、この年は冬大雪山の如しとしていて、註には我が藩に於ては大雪は不祥の兆しであるが、中国の文献では豊年の瑞兆であると記している。この『福島沿革史』の記述内容が正当を得ているとは考えられず、また、この行われた神楽が松前神楽という名称で呼ばれたという証拠もない。さらに松前神楽の一座厳修の場合には太鼓、笛、鉄拍子(茶釜)等の楽人が必要であり、この時代には、未だ神楽式は定まっておらず、恐らく番楽系統の神初歌形式の簡易なものではなかったかと思われる。 松前神楽の発展の過程で見逃すことの出来ないのは、松前神明社白鳥家の『白鳥氏日記』であるが、この第十一巻には、天保十四年十二月二十四日の記事として、寺社奉行所より熊野神社の御獅子頭取調べ方に対し、熊野神社には、
の二頭の獅子頭の存在していたことを明らかにしている。特に古い方の一頭は寛文五年(一六六五)秋田の大塚理兵衞 なる者の彫刻による頭が藩主から奉納されている。その願主は七世公広とあるが、九世高広の誤りで、この時点で獅子頭が奉納されていることは、このころ各神社祭儀として獅子神楽が定形化して来たのではないかと考えられる。 それから十一年後の延宝二年(一六七四)藩主招請による隔年御神楽が、城中で行われるという画期的な行事が行われた。奥平家文書中の『松前御目附所 年中行事』(北海道大学附属図書館蔵)によれば、この城中神楽は、
とあって延宝二年藩主矩広の時、十一月十五日御城内大神事として神楽が鎗之間で斉行された。この神事神楽がのち規範となり、文政五年(一八二二)七事に省略されるまで、一四六年間に亘って継続され、文政五年七事に省略はされたが、明治四年の廃藩まで継続されている。この御城内大神事神楽と一体となるものに御城内獅子祓神楽がある。前同史料によれば、
となって、正月の城中祓神楽は藩主以下、家老、用人も出席して、熊野神社から迎えた獅子頭をもって城中祓を行う。この慣例はいつの年代から行われるようになったかは不明であるが、恐らく御城内大神事に対する正月城中祓の神楽として、延宝二年より近い年代に制定されたと考えられる。 この正月城内獅子祓い神楽は、松前家が移封した文化五年(一八一八)以降も幕府松前奉行により継続されているが、この年代に筆記したと思われる『松前歳時記草稿』にはこの城中祓神楽が次のように詳記されている。
とあって、幕府の松前奉行も正服にて列座し、この神楽座に列席していて、松前家以来の慣例を尊重している。 この松前神楽は各社家で創始されたものが、松前藩主の崇敬と庇護によって集約され城内神事神楽として位 置付けられ、さらには十世藩主矩広の作といわれる曲も生れたということは、藩主がこの神楽を通 じて、神への鎮魂と領内安穏、五穀豊饒を願うと共に、この神楽信仰に篤い領民を精神的につなぎ止める役割をも果 していたと考えられる。従って、その伝承は厳密を極めていた。城内神事神楽の場合は二年に一度であり、その間各社家は各社で、一人が二人の神主と楽人によって奏されるため、各人各様舞様(さま)があり、伝承と異なる形体となることもあり、城内神事神楽が斉行される際は、その伝承を正す事にも意が払われていた。『白鳥氏日記第十三巻』によれば、
と記されている。文中のあら町へ両人とあるのは觸頭の両白鳥氏が、各社家の神楽舞統一をして、十五日の城中大神事神楽に備えるための温習(さらえ)をしていたことを記している。このような厳密な修得過程を経て、社家によって松前神楽は伝承されたが、中には舞を得意としない社家もあった。例えば和賀白鳥家の『八幡録』によれば、
と、八幡社社司の白鳥右京が、舞が得意でないので、大神事神楽の際は舞は舞わず、神事にのみ力を注ぐようにと十一世藩主邦広の命があったことを記録しており、両觸頭が神楽の指導する地位 にあったことは確かである。 延宝二年(一六七四)御城内大神事規條として神楽三十三手が定められた後、新たに考案定型化して加えられた神楽舞も多く、福田舞、利生舞、荒馬舞、鈴上舞、幣帛舞、鬼形舞、兵法舞、神遊舞、山神舞等があり、さらに後代にいたって八乙女舞、御稜威(おみいつ)舞、太刀振荒馬舞、太刀振行列も加わってきた。 このような松前神楽の伝承者は強固健全な体力と精神が必要であった。先ず精神修養では一月十一日以降行われる正月獅子祓神楽の場合、各神社と氏子との間の交礼や町内払は五日までに終了し、在方の神主は城下に参集し、七日は藩主への謁見礼を行って、一度帰村し、一月十一日か十二日(その年によって異なる)の城中祓獅子神楽に合してまた参集する。これには城下の七社(八幡・神明・馬方・熊野・羽黒・西館稲荷・浅間の各社)、在方では、江良町八幡社佐々木家、福島神明社笹井家、知内雷公社大野家、宮歌八幡社藤枝家、白符神明社富山家の五家である。これらの神主によって城中御獅子祓神楽が行われ、下城後直ちに藩家老、用人等の自宅に赴いて祓いをし、十三日から凡そ十日間に亘って城下内の隅々まで祓い、さらに大沢村にまで巡行する。 折柄時節は大寒のときである。狩衣に獅子頭を捧げ、吹き付ける寒風に耐えながらの巡行であるので、常人には出来る業ではなく、肉体的にも精神的にも卓越してなければならなかったし、その苦行の代替で多くの志納金を得、神主の生活を補完した。『白鳥氏日記 第十八巻』によると、正月町祓の志納金精算では出勤各社一社当り金三両と米十二俵が配分となっている。これは社家の生活安定のためにも大きな支えとなっていた。 この藩主および藩の神楽崇敬の思想は、神職一同の伝承尽力によって、地方神楽の代表的なものにまで発展して行った。しかし、この興隆を陰から支えたのは庶民の力である。住民達は神楽を信仰することによって神への結び付きを強め、それによって我が家の平安を祈願するという念が強まり、機会ある毎に神楽の上奏を社家に依頼した。『常磐井家文書』、松前神明社の『白鳥氏日記』、馬形社『佐々木家日記』等によって、神楽の目的別 種類を上げると、次のとおりである。
これらの神楽を斉行して貰う場合は謝儀、志納金として、最低五〇〇文から一両位 で、それを出勤した社家、楽人に配分した。徳川中期では金一両が銭六貫五百文(六、五〇〇文)であったから、一座修行にはこのほか供物等を備えなければならなかったので、これを依頼する人は相当の篤信家でなければ出来なかった。また場所請負人依頼の場所神楽は三両三分であった。 松前神明社の場合は、神主のほかに門治、保五郎等もおり、必要な場合助勤を求めることが出来たが、在社の場合、例大祭のような場合のみ助勤を仰ぐということであった。福島の場合は、宮歌八幡社藤枝家、白符神明社富山家、知内雷公社の大野家に助勤を求め、特別 の場合祭主として松前神明社の白鳥家を迎える事もあった。福島神明社の笹井家の場合、松前神楽を奏上するのは、神主が一人であるため、舞曲を演ずることが少なかったので、鎮竃祈祷による湯立神楽が多く、笹井家『慶応元年日記』にも、
とあるように、湯立神楽が多かったことと、一人では神楽が出来ないので笛は、福島村の住民である三国屋常太郎が吹いていたと記しており、各村社でもおのおのこのような楽人を養成していたものと思われる。 松前神楽の名称がいつから用いられたかは分からない。古文書を通覧しても松前神楽の名称は付いておらず、前述したように目的名を付した神楽名である。例えば城中獅子祓神楽、城内大神事神楽、鯡 神楽等であって、松前の名は付いていない。この神楽が対外(領外)に向けられた呼び名として、松前の名が付されたものであろう。その名が最初に呼ばれたのは、文化二年(一八〇五)松前に渡航した幕府御目附遠山金四郎景普が、翌三年(一八〇六)正月松前神楽について、家老志鎌万輔(まんすけ)を通 じて下問した答い書『文化三年佐々木一貫(松前西館稲荷社神主)記 松前神楽答書』にその名称が、初出していて、松前神楽として定着するのは、明治期以降のことである。 |