第四節 飢饉と福島 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
飢饉とは天候不順等で稲作をはじめ、農作物が稔結せず、そのため食糧に窮し、遂には餓死するという状況をいい、近世においてはこの事象がしばしばあった。特に東北地方においては、その状況が激しかった。東北地方の三大飢饉とは元和、天明、天保の年代に起きた飢饉をいい、これに元禄年間を加えると四大飢饉という。 元和の飢饉は元和元年から三年(一六一五~一七)である。この飢饉は寒冷と積雪で作物が全く稔らなかったという。元和三年津軽に流刑されているキリシタンを慰問するため、秋田から矢立峠、碇ケ関を経過したイエズス会の神父D・アンジェリスの報告書では、夏にもかかわらず、矢立峠では腰を没する雪があったと報じている。そのため津軽、秋田の領内では食うことのできない領民の多くは、金掘となって蝦夷地内に逃散(ちょうさん)し、大千軒岳を中心とした諸河川に入って砂金掘をしている。楚湖(そっこ)(字松浦)と大沢に砂金が採出されたのもこの年であり、また、船隠しの澗の伝説もこのころ入った砂金掘の伝説であり、この元和の飢饉と当地方とのかかわり合いは深い。 元禄の飢饉は元禄九年から同十四年(一六九六~一七〇一)である。『常磐井家 福島村沿革』によれば、
とその惨状を記録しているが、幸い福島地方では、餓死者がなかった。 東北地方の住民が半減したという天明の飢饉は天明三年(一七八三)から八年まで、かつてない惨状を呈し、津軽藩内では人口二十四万人のうち、八万人が餓死、四万人が逃散し、その人口が半減するという全く悲惨なものであった。特に同三年、四年に被害が集中し、同八年にいたってようやく七分作となった。三月は寒気が強く、五月には霖雨(りんう)-長雨と冷気-でやませが強く、夏にいたっても寒く遂に作物は稔結せず、平成五年と同じような状況となった。そのため住民は山菜の根を掘り糊口をしのいでいたが、翌年春までには全く食糧がなくなり、遂には犬、猫から、果 ては人肉相喰むというかつてない惨事となり、ばたばたと死んでいった人が多い。 天明五年西津軽地方から津軽平野に入った秋田の旅行者で博学者でもある菅江真澄は、その著『そとが浜風』では村に入ると入口に餓死者の亡骸(なきがら)がうず高く積み上げられていて、正にこの世の地獄であったというし、夜村中を歩いていると、死骸を踏み、その凄惨さは正に筆舌に尽くし難いと述べており、蝦夷地に渡れば何とか食えるだろうと、三厩や小泊等の湊場に集まる人達は、長蛇の列を造っていたという。 福島村においても、この凶作が大きく影響した。特に住民収入の大宗を占めるニシンがこの年から凶漁ということで、二重の生活苦を体験した。『戸門治兵衞 旧事記』では、
とあって米価が日を追う毎に高騰して行く状況が、手に取るように分かる。さらに『常磐井家福島村沿革』においては、
とあって、津軽・南部から密かに餓死を免れようと渡海する人達が多かった。ニシンが豊漁であれば何とか生活は可能ではあったが、換価作物的な要素を踏まえていた蝦夷地では、凶漁によって生活ができず、藩よりのお救米に手当たり次第に物を混入して食いつなぎ、海草のコンブを粉にして粥に混ぜたのもこの時である。これは干上がったコンブを臼で搗き、粉にしたものを「おしめコンブ」として食したほか、わらび、笹の実等の山菜の根を食べてしのいだという。また翌年(四年)以降寛政七年(一七九六)まで十四年間道南地方の前浜でのニシン凶漁は続いた。当地方の漁民たちは、近場所から中場所にかけて追ニシンをして、収入の確保に懸命の努力を続けた。前記『福島村沿革』では、
であった。地元住民でもこのような飢渇を体験しているので、蝦夷地へ密入国した人達の生活は更に困窮していた。本来松前、蝦夷地に入国する者は、入国手形と松前で身元引受人を必要としたが、それを持たない彼等は藩の目の届かない六ヶ場所(亀田郡、茅部郡地方)や口蝦夷地(久遠、太櫓、瀬棚地方)に潜入して、漁業を通 じて糊口をしのぎ、その地方に定着する過程を作って行った。この天明の飢饉で、松前藩領内では餓死者はなかったと公表しているが、寺院のなかには、餓死者慰霊の大施食法要を行っている寺もあるところを見ると、若干の餓死者はあったものと考えられる。 天保の飢饉は、天保三年から十年までの間(一八三二~三九)に、同五年を除き、七年間連続の凶作であった。天保三年の飢饉は土用に入っても快晴を見ることなく、九月中旬降雪が二尺に達したといい、そのため凶作による不作の連続で住民は全く食糧がなく、津軽藩は被害の少なかった関西や九州方面 で米の買い付けを行っているが、米価は高く、住民の救済が出来ないため、餓死者は続出した。 天保七年の津軽地方凶作の天候状況や凶作状況を知る史料に三厩村(東津軽郡)名主の松前家の本陣松前屋庄平(三厩村長山田清昭氏の祖先)より、松前藩家老の蠣崎将監(広伴(とも)-広年、波響の子)に宛てた手紙に、次のように報じている。
このような状況であったので、同八年の冬の飢饉は激しく、この年は三分の二の作柄ではあったが、連年の凶作の余波を受け、住民に財力もなく餓死者四万五、〇〇〇人余、逃散者は一万人に達したという。僅か一年間でこのような死者数であるから、この天保の飢饉の七年間に死亡した餓死者は相当数に達したと思われる。 一方松前藩領内については、天保四年、五年の松前町会所『町年寄抜書』に於ては、津軽、南部地方の凶作を見越して、幕府の越後払下米や、大坂、勢州から肥前、肥後といった関西から九州地方にかけて近江商人や場所請負人を通 じて米を買い集め、領内の食糧安定のために努めていることが記されている。 また、七年の飢饉は深刻なものであった。『松前家記』の第十五世良広の項には、
という藩としても領民はもとより、他国からの流入者の介抱にも配慮しなければならなかった。幸い松前藩領内は手当も迅速だったので本州からの廻米も多く、各村には安価の救助米が配備され、住民は何とか糊口を凌ぐことが出来た。『宮歌村文書 村方日要覚』の中にも、この飢饉の際の廻米記録が記されている。
これによると、藩の御払米は一俵一両二分程度であるが、これは通 常価格の三倍ではあるが、市販の米が内緒売で十両から十二両位であったから、十分の一位 の価格で払い下げられていた。この時宮歌村には金がないため、福島村の金屋(谷)助四郎から借り、他はイカ釣漁業での鯣(するめ)で返す青田借りとしている。また、病人や独居者の世帯については、特に名主が取り調べて藩に申告し、藩からは救済米が下付された。 松前藩領地内では餓死者もなく、この飢饉を乗り切ることができたが、向地の津軽、南部、秋田地方を逃散して蝦夷地に入る人達が多く、発見されると少しの米と干魚等を与えて、向地に返している。しかし、この目を逃れて山稼者になったり、小村落に入り込む人も多かった。例えば福島町の農業のさきがけとなった渋谷寅之丞等も、この天保飢饉の年代に福島へ入ってきている。『古来御巡見様松前江御発駕覚』(福士忠次郎筆 天保十二年 市立函館図書館蔵)によれば、
とあり、最初は杣夫の山稼として入国、家を建て、田畑を耕すことによって、ようやく九年後福島村に居住権を得た過程が詳細に分かる。 また藩政時代、福島村の枝村であった小谷石村の生活を伝える『松前天保凶荒録』では次のように記録されている。
とその生活が容易なものでなかったことを記している。蘿蔔(らふく)とは大根のことで、僅かに藩から払い下げられる一人一日一合の米に、この大根や、馬鈴薯(二斗薯(にどういも)、五舛薯(ごしょういも)ともいう)やわらび、くずなどの澱粉、コンブのオシメ等を食べ、露命をつないだが、札苅、泉沢、木古内村方面 では、「此際青森地方ヨリ続々渡航セシ人アリテ、漁業ヲ営ミ、後土着移住、今尚残留セルモノ数多アリ」と述べていて、これで道南地方各地に定着して行った過程がよく分かる。 |