第三節 福島・松前城の攻防戦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川脱走軍が五稜郭を占拠したその日の二十六日、兼ねて松前藩江戸屋敷の家老遠藤又左衞 門、京都御所守衛松前藩取次役高橋敬三の二人の佐幕派家臣誅殺のため出張中の松前藩の家臣達が、その目的を終えて箱館に帰って来た。その一行中の渋谷十郎の筆になる『渋谷十郎事蹟書上』(函館市中島良信氏所蔵)は、箱館より、知内・福島を経て松前城の攻防にいたるまでを詳細に記していて、この戦争を知るための手掛りとなるので次に掲出する。
とあって脱走軍の松前進攻の経過と、松前藩士渋谷十郎と土方歳三との交渉過程、さらには脱走軍の進攻軍備況を詳しく述べている。これによると、十月二十七日に五稜郭を発足したといわれる土方は、この日まだ郭内に止まっていて、二十八日有川村(上磯町)の種田徳左衞 門方に泊り、翌二十九日泉沢に泊まったと思われ、三十日には先鉾が知内村に達していたと思われる。 徳川脱走軍の松前城進攻隊の編成は、総指揮官(隊長)に新撰組副長であった土方歳三が当り、隷下の各隊は彰義隊、幕府士官隊、幕府陸軍隊、仙台藩額兵隊、新撰組、砲兵隊等約七〇〇余で、これに作戦参謀として、カズヌーヴ、プーヘー等のフランス軍人も参加している。 これに対し松前城を守備する松前藩は、城代蠣崎民部、総長松前右京、隊長鈴木織太郎、尾見雄三、軍事方新田千里、三上超順等四〇〇余であったが、徳川脱走軍の襲来の報を受けると、松前城を死守することにし、その前段として、茶屋峠(字千軒~字三岳間の山道)と白神峠(字松浦と松前町字白神間の山道)の二つの天嶮を利用して迎え撃つ体制を取り、二十七日松前藩の各隊は福島村に集合、陣代蠣崎民部、隊長鈴木織太郎らが出張し、浄土宗法界寺を本陣とし、その背後の山に砲座を設け、吉田橋前の大門から内側へ市内の守備陣形をとった。さらに福島神明社前には天保年間松前藩が設置した砲台があったが、吉岡砲台の整備によって廃止となっていた場所を利用して急造砲台とした。 また、二十八日には福島を守るための砦として茶屋峠の頂上付近に防塞を築き、松前藩砲術隊長の駒木根篤兵衞 が兵一三人と遊軍五〇人そして三〇〇匁砲二門を吉岡砲台から廻し備え付けた。 この茶屋峠に大炮(砲)隊長として、陣頭に立った松前藩砲術隊長駒木根篤兵衞正甫(まさもと)の履歴書が旧館藩に残されており、それによると、
となり、松前家臣となっているが、篤兵衞は森重流炮術、西洋炮術、起倒流體術、宝蔵院流鎗術等の稽古(けいこ)世話掛をする武人で、ユウフツ、エトモの勤番頭、戸辺地(上磯町)御陳家脇備頭、勘定吟味役、勘定奉行を経、箱館戦争の際は五十二歳であった。 この履歴書には茶屋峠・山崎(字三岳)・福島での徳川脱走軍との戦闘を詳細に述べているが、それによると、
とあるように、十月二十八日には峠の配備を完了し、二十九日福島本陣陣代蠣崎民部は前線本部を一の渡りに移し、その尖兵は知内村に出兵し、三〇日はそこで一戦を交え後退し、十一月一日には徳川脱走軍(以下脱走軍という)は萩砂里(はぎちゃり)(萩茶里-知内町字上雷小字東菜)まで進出してきた。 その間に前記渋谷十郎らと行動を共にしていた桜井怒(き)三郎が、脱走軍の説得を受けて、松前藩への和平の使者として、福島に来て要旨を告げたところ、隊長鈴木織太郎が怒り、藩論を乱す不届者として福島で処刑したといわれている。 また、福島へ出陣する際の二十七日各神社の神主で編成する図功隊を組織したが、福島からは神明社笹井三河、白符神明社富山刑部、知内雷公神社大野石見等も参加していて、笹井三河の『御答書上』によれば、
と神主達まで駆り出して戦闘員として参加させている。 【福島の攻防】 松前に向け進撃を続ける脱走軍と松前藩との戦闘は十一月朔日に行われた。この日の午後脱走軍の軍艦蟠龍(ばんりゅう)が津軽藩旗を掲げて松前湾頭に姿を現わした。城中では不審に思っている間に松前城を砲撃し、城中も砲撃したが、技ケ崎(字福山)地先の筑島砲台より打ち出す弾丸が蟠龍に当り、一発は士官室に、一発は艦頭の槍出しに当ったため、蟠龍は沖合に出、帰路(同日夕刻)福島の松前藩の出張本陣を砲撃し、松前藩側もそれに呼応して、神明社前の海岸砲台からの百匁砲四門、法界寺山より同砲二門で砲撃を行っている。前述の駒木根篤兵衞 の履歴書にあるように、蟠龍の砲撃のため茶屋岬の駒木根隊も応援のため福島へ向かったが、蟠龍が箱館に帰航した後なので、夜中茶屋峠に引き返している。 この朔日に福島市街で戦闘が行われたと考えられているが、実際の戦闘は二日に行われている。朔日には福島を基地として松前藩兵のハギチャリ夜襲という奇襲作戦が、松前口での戦闘の緒戦となった。『松前藩戦争御届書』(ハギチャリ合戦一件-函館市中島良信氏所蔵)では、
とあるが、松前藩の報告はいささか誇大があるように思われ、脱走軍兵士六十余人を斫斃したという数字は正に過大の報告で虚偽であると軍務官からも批判を受けていて、のちに問題となり、明治になって『北洲新誌』等で議論されている。 また、仙台藩脱藩で、額兵隊の七番隊惣小荷駄隊長として、この戦闘に参加した荒井平之進(蝦夷地では佐馬介)宣行の著になる『蝦夷錦 乾・坤』の関係文では、
これで見ると松前藩の言うハギチャリの合戦というのは、十一月一日の午前八時ころ、鰯枠船三艘に分乗した松前藩の一小隊約五〇人が隊長渡辺々、副長目谷小平太の指揮のもとに、矢越岬を越えて小谷石村に上陸し、ここから間道伝いに脇本村を経て、知内本村に到って様子を窺がって、翌朝午前二時ころ知内本村に夜襲をかけ、戦闘となったもので、その際脱走軍の糧道を断つ目的で、村中に火を掛け大火となった。そのとき脱走軍の尖兵としてハギチャリ村まで進出していた仙台藩脱走の額兵隊(隊長星恂太郎)が、この知内村方面 からの炎を望見して変事を知り、急拠知内村に引き返した。また、木古内村に宿していた衝鋒(しょうほう)隊(隊長古屋作久右衞 門)もこの火を見て知内村に駆け付けるなどの大騒ぎとなった。この夜襲で知内に泊まっていたのは陸軍隊(隊長春日左衞 門)であったが、この松前藩の夜襲は成功し、緒戦は勝を収めたが、『御届書』に見るような戦果 は上げてはいない。 夜襲を終えた松前藩兵は元来た道を小谷石に帰り、船で福島に帰ったのは同二日の朝であり、脱走軍は松前藩兵の帰路を遮断(しゃだん)しようとしたが、地理が分からず、見失ってしまっていた。 二日一の渡りに先陣を布いていた松前藩の陣代蠣崎民部は、綱配野(字千軒)の東端の崖地上に散兵壕を設けて、鍋坂(なべこわしざか)(御番坂)を登って来る脱走軍と正面 きっての戦をすることになった。しかし、松前藩兵は急な出撃でしかも着物に野袴、陣羽織に笠や鉢巻をしめて、草鞋(わらじ)履といういで立で、それに大・小刀を差し、槍、鉄砲である。見た目は勇ましいが、体の自由もきかないし、鉄砲は先込めの三ツバンドのゲーペル銃か、はなはだしいのは火縄銃である。それに引替え脱走軍は、尖兵となった額兵隊はズボンに詰襟(つめえり)服それに表は黒、裏は赤のケットー(毛布)の陣羽織、腰に白い晒(さらし)をしめ、大・小刀を差し、エンフィルド銃(螺旋式、後底装)や最新式の山砲・野砲を持ち機動力に富んでおり、また、この額兵隊は行進の際は黒ずくめの服装であるのに、戦闘が始まり陣羽織を裏返すと真赤な色に変り、敵を威嚇するというように変身していた。福島町民の伝承の中に、「仙台藩の兵隊は、普段は黒ラシャの陣羽織を着ていたが、いざ戦闘となると、陣羽織を裏返すと猩々緋の赤いフランケットの陣羽織で、この色が恐ろしくて松前藩が負けたんだ」という言い伝えもある。 一の渡りの戦で破れた藩兵は、茶屋峠の急造陣地でも破れ、峠を下ったヒョウマイから山崎間に大砲を備えて防戦したが、兵力、火力、機動力の差はどうにもならず、三本木を経て福島村に後退した。福島村では法界寺の本陣を中心に、吉田橋内側の大門、西側は神明社境内の砲台等で防禦したが、彰義隊隊長渋沢誠一郎指揮して、額兵隊と共に吉田橋正面 から、さらには北側渡河して三枚橋付近から、また一隊は福島川河口から浜中を経て攻撃し、銃撃戦となった。この時湾内に回天、蟠龍の二艘が援護射撃をし、神明社前の砲台からもこれを攻撃したが、蟠龍の弾丸が神明社本殿の梁棟木(はりむなき)を打抜いている。 この戦に彰義隊頭取改役寺沢正明の『幕末秘録』によれば、美男子で吉原・稲本楼の花魁小稲と浮名を流したことで有名な(乱-中央公論、一九九四秋季号 綱淵謙錠筆)彰義隊士の毛利秀吉の戦死の状況を、
と法界寺付近の戦闘と、毛利秀吉戦死の状況を詳細に記録しているが、この毛利秀吉の墓は法界寺山側の一偶に建っているが、これは福島の戦いの後、明治二年四月まで駐留警備に当っていた脱走軍の会津遊撃隊付属隊(諏訪常吉隊長)が建立したものと思われる。 この福島を守る松前藩の状況は、『松前修広家記』に詳しく、
という福島市街戦の模様を伝えている。この決戦の際陣代蠣崎民部(松前城代)は早く立去(の)き、鈴木織太郎が総長として指揮していたようであるが、白兵戦のなか、沖合で福島を砲撃していた回天、蟠龍には、脱走軍首領の榎本釜次郎武揚(たけあき)、副首領の松平太郎が乗船していて、松平が二艘のボートに兵員を乗せて上陸応援したため、松前藩が遂にこれを支えることが出来ず、本陣の法界寺に火を掛け、法界寺背後から山道掘割を通 り白符村に逃れ、また海岸近くの兵は慕舞(しとまい)から白符村に逃れた。法界寺のつけ火は夜空を焦(こ)がし、その火が燃え拡がって、寺前の民家三戸を焼き、村に入って来た脱走軍が延焼をくい止めた。また松前藩兵は逃れる途中各村に火を付けながら逃げ、慕舞五、六戸を焼いたほか、白符村、吉岡村、礼髭村にも火災の被害があった。脱走軍側は前夜知内村の夜襲で糧食を焼かれてしまって、食べるものがなかったので、福島での戦闘中は空(す)きっ腹で、戦が終ってから民家に入って夢中で飯を食していたといわれている。 松前藩兵も福島の戦では、宮嶋磽之亟、田中宇吉、高橋二太郎、桜井金七郎、武藤幸右衞 門、寺田治助等が戦死している。 三日福島村で休養を摂った脱走軍は尖兵が四日吉岡村に入って、白神山道上に陣する松前藩兵の攻撃方法を検討していた。ここで吉岡村から炭焼沢村(字白神)、荒谷村に通 じる道が、白神山道(礼髭村から炭焼沢)に至る道のほかに、吉岡村から不動滝を経て荒谷村に至る杣道(吉岡山道)のあることを聴き出し、この両山道から出撃することにし、五日早朝行動を起した。吉岡山道越は一般 には知られていない道なので、全く予期していない処に、脱走軍が荒谷村に出現したことを知った白神山道上の松前藩兵はあわてて陣を撤収した。 【松前城の攻防】 松前城下と松前城を守る藩兵も必死の覚悟で防戦の準備に入り、先ず進出して来る脱走軍を、城下入口の及部川流域で防禦すべく、軍事方新田千里(ちさと)を中心に及部川口および橋口に布陣をした。幸いさきの箱館から清水谷府知事に同行して青森に逃れていた竹田作郎以下の戸切地(上磯)の松前陣屋の兵一五〇名が、汽船オーサカ号を雇って青森から三日松前に着き、松前城の守備兵は約五五〇名となったが、その半数を及部川流に出陣させた。先ず、及部川以東の松ヶ崎(現松前小学校付近)に尾山八百里、工藤大之進の率いる二五名を伏兵とし、さらに野越坂下に牧田津盛ら二名さらにその西方に竹田泰三郎ら二五名を配置し、及部川西には隊長下国貞之丞が橋口に一小隊(五〇名)、新田千里を総帥(そうすい)とする文武館掛一八名は橋口の空家に五門の百匁砲を配置、大砲隊長因藤辰次郎らは兵一四名と旋条砲二門、河口には瀬戸昇平の一小隊、熊坂轟(とどろき)ら一五名、島田能人(よしと)ら二〇名、さらに上流御狩屋付近には新井田早苗(さなえ)が三百匁砲二門と二四名を配置し、脱走軍の城下進出を阻止しようとした。 五日吉岡村から出撃して午前八時ころ荒谷村に現われた脱走軍は兵約四〇〇に二門の野戦砲を曳いて侵入、大沢村裏後の高台を占領した。これによって白神山道上の藩兵が挟撃されそうになったので、あわてて松前城下に退却した。脱走軍は正午過ぎ、及部川東岸近くに進出し、松ヶ崎、野越付近に埋伏していた藩兵と銃撃戦を展開したが、一進一退を続けているとき、脱走軍軍艦回天が沖合に現われ陸上軍を援護射撃し、両軍銃撃、白兵戦、吶(とっ)かんのうちに、及部川上流付近から渡河した脱走軍の進出によって、藩兵は遂に兵をまとめて松前城に逃れ、ここで決死の防禦につくことになった。 この日の午後脱走軍が馬形(まがと)台地に進出し、その突端部分の法華寺境内に陣を構え、先ず眼下の技ヶ崎町(字福山)の筑島砲台をつるべ撃に砲撃した。松前湾には回天、蟠龍の二艘の軍艦が現われたが、筑島砲台の大砲に威力があるため、進入できなかったので、先ずこの砲台を沈黙させる必要があったからで、脱走軍の砲撃によって筑島砲台は隊長池田修也ほか四名が爆死を遂げ、回天は湾内を航行して松前城を砲撃した。(蟠龍は高浪のため沖合を航行していた。) これに勢いを得た脱走軍は南面、東面する天神坂、馬坂より搦手口へ、また一隊は新坂から寺町門口へと攻め登った。城中の藩兵は城代家老蠣崎民部を守将とし、三上超順を軍事方(参謀)とし、竹田作郎、上原久七郎を長として南門(搦手門、大手門、天神坂口門)四五名、北門(寺町御門)を佐藤男破魔の率いる五〇名が守り、及部河口から撤退した諸兵が、各門と本丸内を固めた。海軍の援護を受けた脱走軍は天神坂口より攻撃し搦手門に到ったが、この門を死守する竹田作郎らは、門内に野戦砲を並べ、弾薬を装填して門を開き、突入する脱走軍に砲火を浴せては門を閉め、さらに装填して又撃つという作戦を取った。そのため脱走軍側は斬込隊を門近くの石垣にはりつかせ、開門と同時に斬り込んだため、本丸内は孤立した。一方寺町へ進出した脱走軍は濠、土居を乗り越えて北ノ丸から城内に突入し、城内では激しい斬り合いが行われた。この戦闘を旧幕臣の小杉雅之進は、その著『麦叢録』で、
と城中の戦闘状況を記録し、松前藩士のなかにも勇者があったと賞讃している。なかでも藩士田村量 吉は七十一歳で隠居していたが、お家の大事と出陣し城中斬り合いで手負いとなり、本丸御殿玄関で割腹自刄を遂げている。また、足軽北島幸次郎の妻川内美岐は落城を悲憤して鉄で喉を突いて自殺し、のち女性第一号で靖国神社に祀られている。 この松前城の攻防戦では兵火や、敗走する松前藩兵の放火によって各所に火災が発生し、町々は大火になったが、住民の多くは伝知沢や大松前沢等の山、沢に避難していて、戦が終ったので家に帰って見ると、家も家財も丸焼けとなっていて、只茫然とするばかりであった。時季的にも向寒期を迎え衣類とてなく、さらに物価の高騰で食するに米もなく全く悲惨な状況であった。 松前城下のこの戦争被害は、
であって、城下の四分の三を焼くという大被害であったといわれる。被害の少なかったのは、川原町、中川原町、蔵町、神明町、湯殿沢町、小松前町の一部、寅向町、及部町、惣社堂町等で、寺院で焼失を免れたのは、正行寺、法華寺、龍雲院、宗圓寺の五か寺と、神社では神明社、馬形神社、熊野神社、羽黒神社等であった。 |