第三節 福島郡の開拓使への編入 | ||||||||||||||||||||||||
青森県は明治四年十一月八日各支庁(出張所)の定員を定めたが、福山支庁(出張所)は、
と福山支庁の職員定数は僅かに一四名で、このうちから江差に四名を派遣しているので、福山(松前)在勤者は僅かに一〇名であった。出張所長官は松山龍江が任命されたが、未経験の地での出張所開設は、地元側の協力を得られなければ執行できないこともあり、前館県少参事であった今井徽を長官補助とし、大属小出光照が実質的事務を遂行していた。 九月二十三日弘前県から青森県と改称移庁された際菱田権令は赴任途上にあり、野田弘前県大参事の意嚮が強く反映しての青森移庁となったと思われ、その伺書のなかでも、「弘前へ県庁を設けるのでは場所がかたより、館・八戸・斗南との連絡がつきにくくて困る。青森は陸羽第一の大港で海運の便もいいし、陸奥・渡島(北海道)両国を管理するのに最上の要地だから、青森へ県庁を移したいと思う。青森港には是迄弘前県出張所もあることだから、別 に庁舎を建てなくてもよい」(『弘前市史 明治、大正、昭和編』)とあって、この移庁自体も種々の難問を抱えてのことだったようである。 福山出張所業務の主なものは、旧館藩、県時代の負債の政府引継ぎ、士族秩禄の給与、明治五年(壬申)に全国一斉に実施される戸籍作製のための戸長役場の設置等多くの難問が山積していた。また、青森から松前へ直航する便船も少なく、一つの書類の往復に三〇日も要するため、事務の進渉が望めず、この地方の統治は地域的にも不便であるばかりでなく、多くの難問を伏在しているので、この際返上したいが、もし、それが出来なければ、青森と松前を結ぶ政府連絡用の小蒸気船の配置を要望すると、十二月青森県は、太政官史官に対し建白書を提出した。
この建白に対し、史官は十二月二十七日回答し、
この建白に対し史官は青森県の地形の不便なことは十分承知しているが、小蒸気船を配置するということは多大の官費を要するので、衆力協合し民力をもって新造するような配慮が必要であると、建白書を返却している。 明治五年に入ると松前(福山)地方は不況が一段と進行した。それは明治三年六月七日福山川原町二一番地から出火し、箱館戦争で焼け残っていた中心街の川原町、蔵町、中川原町、横町、中町、大松前町、小松前町の約四〇〇戸を焼く大火があり、四年に入っては廃藩置県によって、城下町としての特権を失った町に居座っていても経済的利得のないことを悟った商人の多くは、小樽、札幌方面 に転進する商人が多かった。更に五年に入るとそれまで何とか持ちこたえて来たニシン漁も、渡島半島一帯が凶漁に終ったという事もあって、これらの地域全体が極度の不況におそわれた。 この事態を憂慮した青森県福山詰大属小出光照は、官員ではありながら政府のこの置県政策の有り方を痛烈に批判した次のような建白書を史官に提出した。
と大要は北海道の地域内にあって、青森県管轄下にある不合理を説き、速やかに北海道を統轄する開拓使治下に編入することを求めるというものであった。政府としても旧館県地方の開拓使への管轄替について協議してきたが、開拓使も時勢が、道南四郡の編入をすべしという大勢を察知し、同五年九月二日元館県地方の管轄を願い出、九月二十日認可され、
という指令によって、福島・津軽・桧山・爾志の四郡は青森県管轄から離脱し、北海道を管轄している開拓使の治下に入った。 |