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第一節 津軽海峡の成立

 北海道の地形は古代においては常に変動を繰り返していた。それは氷河時代の気候が、著しく寒かったり、温暖になったりという変化があり、それによる海水底位 の変動によって海岸汀線は年代により、大きく変化していた。また、支笏(しこつ)火山、クッシャロ火山、摩周火山、樽前火山等の噴火や地震によっても地形に大きな変動があった。

 北海道に北方から先住民が入って来て生活するようになったのは、今から四万年位 前からだといわれている。それまで非常に寒かった北海道の気候がトッタベツ氷期(四万四、〇〇〇年前)ころからやや暖くなり、マンモス等の動物もシベリア大陸、樺太(サハリン州)から宗谷海峡の陸橋を通 って北海道に渡り、人類と共に住み着くようになったといわれている。そのころは寒冷のため海水が少なく、また氷河等が多かったので本州の竜飛岬と本道の白神岬を結ぶ地域は、海峡がなく、陸地が続いていて、人々が自由に往き来することができた。また、朝鮮半島から九州、樺太から北海道の現在の海峡部分は、すべて陸続きで、自由に徒ち渡ることが出来た。従って現在の日本海は四つの海峡の陸封によって出来た、大きな湖であったと言われている。

 北海道と本州とを結ぶ津軽海峡の西側にあった白神岬と竜飛岬間の陸橋と呼ばれる地続きには、三本の海釜が南北に走り、これが陸橋となっていた。最も東側の一本は、吉岡地区から日向地区にかけての海岸から海丘埋を経て、馬の背状態となって竜飛岬から三厩村(青森県東津軽郡)に延長していて、海底の最深は一四〇メ-トルから一六〇メ-トルである。真中の一本は白神灯台のやや西側から南に伸びる線で最深部は二〇〇メ-トルである。さらに西側の一本は松前弁天島から南東に向い、小泊村(青森県北津軽郡)に達し、水深は二〇〇メ-トルである。現在の海水位 は、この時代二〇〇メ-トル位低かったと想像されるので、津軽海峡の西口の福島―竜飛間の陸橋は海面 に四〇~五〇メ-トル姿を出していて、人々は、左に太平洋、右に日本海を見ながら徒(か)ち渡っていたと考えられる。





津軽海峡西口等深線図




 こうした陸橋もトッタベツ氷河期の約五万年位前の時代から地球の温暖化傾向が強まり、人類や動物の住める気候条件ができ上がり、最近の考古学調査では、白滝前期文化(紋別 郡白滝村)出土の旧石器は三万八、二〇〇年前のものといわれるから、この時代にすでに北海道に人が住み着いていたことが明らかである。さらに植物群も胎生しつつあった。しかし、このトッタベツ氷河期は次頁図の如く、一、〇〇〇年を単位 として寒暖を繰り返しつつ、温暖の方向に向かっていることが分かる。この温暖化は氷山や氷河が溶け、海水の増加することによって、この陸橋の姿も年と共に小さく変化したと考えられ、湊正雄の論文「最近の地質時代における北海道の古地理的変遷」で、筆者はその状況を、「例えば、マキシマム・ウルムにおける、深度一四〇mの降下量 から、その頃の汀線が、現在の海底における一四〇m等深線の位置に機械的に求められるとは限らないものである。何故ならば、海水面 降下時代の侵蝕と上昇時代の堆積は、複雑に交互しており、従って部分的に、(古い海水面 上に残されて侵蝕をまぬかれた)堆積面や、不規則な侵蝕面の複雑な合成の結果 が現在の海底地形を形成している。」と述べている。この陸橋は海水の増加と、それに伴う海水面 の上昇によって、海中に没したものであるが、その海没年代について湊正雄(当時北海道大学教授)は、「北海道が海峡によって最終的に本州から隔離したのは、今を去る一万八千|一万七千年頃であろう。また、宗谷海峡が成立したのは、一万二千年頃であったとみなされる。」とし、陸橋の海没によって津軽海峡が成立したのは、今から一万七、~八、〇〇〇年前であるとしている。この海没の順序も津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡の順で、一万二、〇〇〇年前後には日本海は今の形にできあがったものである。

 しかし、亜氷期の時代は冬期はなお極めて寒冷であり、津軽海峡では海水温が0度以下になっていたらしいので、冬期には津軽海峡をはじめ北方の凡ての海峡が、流氷によって、一種の氷橋が形成されていて、冬期間は人がこの氷橋を往き来していたもので、この氷橋が全く消滅するのはトッタベツ/間亜氷期中葉(一万年位 前)以降の事と言われている。



(この項は当時北海道大学教授であった故湊正雄の論文「最近の地質時代における北海道の古地理的変遷ー(北海道の生いたち)」、『新しい道史ー通 巻三九号、北海道昭和四十五年三月三十一日発行』を多く参照し、また抜萃させていただいたことに感謝申し上げる。)