第六節 福山館の築城 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松前氏の祖蠣崎氏は、永正十一年(一五一四)二祖蠣崎光廣、義廣の父子が、上ノ国から松前に移って、十三湖の安藤(東)氏の同族下国氏の居館した大館に入り、館を改修して徳山館と改名し、ここを本拠として和人地内に発展する基礎を築いて行った。天正十九年(一五九一)四月、五世慶廣の長子盛廣の居室から出火し、先祖伝来の武器・財宝を焼いたのを機に移城を計画していた。 中世の城館は天然の要害を利用し、僅かに空堀や土塁、柵等を配した簡単なものが多く、防備には秀でても、治城の地ではなく、この徳山館も例外ではなかった。松前氏の五世慶廣は松前の地が将来海を通 じて発展することも考慮に入れたと思われるが、徳山館の南方で海岸に隣接する福山の台地に、慶長五年(一六〇〇)築城を開始し、六年の歳月を経て慶長十一年完成し、福山館と称した。その規模は、享保二年(一七一七)幕府巡見使一行の筆と思われる『松前蝦夷記』によれば、
と述べていて正式名称は福山館であるが蝦夷地内では城と称していた。近世の大名は徳川幕府の武家諸法度(はっと)(元和元=一六一五)発布後は一国一城に限定され、城を持つことを許される大名は、城持大名と承認された大名の居城のみを城とし、他は中世の館(たち)の名称を用いた館(たて)、あるいは陣屋と称した。この時点で松前氏は城主大名とは認められなかったので、福山の台地の名称を冠した福山館と称していた。 この福山館は、寛永十四年(一六三七)三月二十八日夜に藩主居館から火を発し、鉄砲火薬に火が付いて爆発し、藩主七世公廣も負傷するという事故があり、同十六年上ノ国目名沢から桧(アスナロ・羅漢柏)を伐り出して本丸御殿を再築している。その後寛文九年(一六六九)日高の族長シャグシャイン蜂起の際、物見櫓を二か所建立している。 宝暦四年(一七五四)八月二十八日藩士青山園右衞門方から出火した火災で、城東の遠見櫓を焼き、明和二年(一七六五)の年再建して幕末にいたっている。 |