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第二節 各村の創始

(二) 白符村

 白符とは、アイヌ語のチロプに発し、鳥の多い処の意味である。古来から鷹(たか)の多い場所であったと思われ、塒(とや)の沢など鷹のねぐら(巣)のあったところで、『村鑑下組帳』でも「塒場、壱ケ所、塒之沢、近來鷹待無之、古來、此塒ニ而て白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申候由申傳」とあって、白符村と鷹との結び付きの強いことを強調している。













 白符村の沿革は、遠く文安四年(一四四七)に発しているといわれる。『北海道漁業志稿』(北海道水産協会編)によれば「又舊記に據るに、文安四年陸奥の馬之助と稱する者、今の白符村に來り鯡 (にしん)漁に從事し、」とあり、これを根拠に今から五五〇年近く前、白符村でニシン漁業が行われ、これが北海道ニシン漁業のはじまりといわれている。

 しかし、これには異論も多い。まずこの史料については、出典を明らかにせず極めて曖昧(あいまい)であること。また、この時代の蝦夷地の漁業環境を考えるとその論拠には無理があり、また、これを否定する史料が残されている。

 北海道大学附属図書館に『白符・宮歌両村舊記』という記録が残されていて、それには詳しく白符村の沿革が次のように記されている。





























 當村之由緒御尋ニ付申上候御事
當村之根元ハ津軽ねつこ村(現在の青森県南津軽郡田舎館村)馬之助与(と)申者上山中べそり与申所へむかし相渡リ居候処、御殿様御尋御座候而御城下あら町ニ屋舗被下置しバらくはいかい仕候。然共妻子養可申様も無御座在郷願上候得ハ何方なりとも勝手次第ニハ候得共、歌ハ手近ク候間うた内ニ居候様被仰付、依之唯今之処鮑多ク、夏ハ鱒秋ハ鮭沢山ニ御座候故、ねまつり江罷越居申候。其砌ハしとまい迄家一軒も無御座候処、其後段々身過能商事自由仕候故、人共追々参候而家数ニ罷成候ニ付、頭分之者願上候得ハ 御殿様則馬之助ニ肝入   ()被仰付候、其時節ハ歌ニ夷弐間(軒か)御座候。
鮭引網之儀者歌の御百姓打寄打込ミ引申候、村吟味ハ肝役之者相勤申候。まないノ川ハ馬之助ニ被下置支配仕候、両川共ニ魚御座候よし申傳候。
…一項略…
白符村ハ元來惣名ねまつり与申候処、しらふの御鷹出候より白符村と 御殿様御改被遊候、則御塒茂御座候。
…一項略…
 
 以上

元文四己未年八月
 白符村小使
伊四郎   判

惣年寄

惣百姓
 肝  入源左衞門  判


 この史料は白符村と宮歌村の村境争いの際の白符村申立書であるが、これには村の開創者は津軽ねつこ村出身の馬之助であるとしているが、馬之助がどのような知遇を得たのか、松前藩主の許可を受けて根祭岬(字白符)に定住したかは不明であるが、馬之助の定住は、この史料から推考すれば近世(十七世紀以降)であって、室町時代の文安四年に白符に定着したとする、前述の『北海道漁業志稿』の記述は誤(あやまり)であるといわざるを得ない。また『村鑑下組帳』においても白符村の古百姓に馬之助の名前が出て来ないので、この馬之助は伝説上の人であるかもしれない。

 白符村の場合も、礼髭村と同じく藩の重臣の知行所となっていたが、その知行主は河野系松前氏の祖、松前景廣である。河野系とは、長禄元年(一四五七)に発生したコシャマインの兵乱の際戦死を遂(と)げた箱館館主河野加賀守政通 の家系を保存伝承するため、松前氏第五世藩主慶廣が、六男の景廣に松前氏を冠称しながらその家系を守らせ、従って河野系松前氏と称したもので、その家系は『松前家家臣履歴書』(函館市中島常行氏所蔵)によれば次の通 りである。










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 この松前景廣の兄弟は、長男が松前氏の第六世藩主となり、次男忠廣は幕府の二千石の寄合席旗本となり、三男利廣は南部氏に禄仕の後、松前に帰り家老となったが、元和四年(一六一八)本州に逐電(ちくでん)して行方不明となっている。四男数馬之助由廣は大坂方に内通 し祖父慶廣に殺され、弟の七男松前右兵衞安廣は仙台藩に禄仕し二千石の大身家臣となり、その子は白石城主片倉小十郎の婿養子となって片倉家一万八千石の城主となっており、一人六男の景廣のみが松前藩に執政職(家老)として勤務し、兄の第六世藩主盛廣、第七世藩主公(きん)廣を扶(たす)けて藩政に精励した。

 景廣は慶長五年(一六〇〇)の生まれで、三歳のとき河野家の継嗣となり加賀右衞 門と号し、のち美作(みまさか)、伊豫(いよ)とも号した。藩執政として活躍し、寛永二十年(一六四三)病のため四十三歳で執政を辞した後、髪を剃って隠居し快安と号した。正保二年(一六四五)松前氏の家系及び蝦夷地における祖先の履歴を詳細に記述して『新羅之記録』(上・下二巻)にまとめ、これを三井寺園城寺内の源氏の氏神新羅神社に持参し、加持祈祷を経て一組を同社に奉納、一組は松前氏が新羅源氏の出族若狭武田氏出身である印可を得て持ち帰った。その後、永く同家の家宝として他見不出を守り、同家の末裔奥尻町松前幸吉家に保存されている。初祖景廣は万治元年(一六五八)五十九歳で没し、子孫は代々松前藩の寄合席執政職として藩政に大きく貢献してきた。

 このような家格と藩政への貢献によって、景廣には留萌、天塩の両知行場所のほか、特に白符、木古内、北村(上ノ国町)の三村を和人地の采領地として下賜されたものである。藩に納める本税は別 として、知行主に納める小物成(付加税)には薪(まき)、椎茸、牛蒡(ごぼう)、雪囲簾(みす)、小松菜、干蕨(ほしわらび)、ぜんまい、馬草の村内特産品をはじめ昆布、鯡 鮓(にしんすし)、身欠鯡等があり、このほか松前氏の祖先が蝦夷地に来たとき、住居にも困って笹小屋に莚(むしろ)を敷いて生活した古事に由来し、菅苫(すがとま)、笹、白箸(はし)、おしめ昆布(昆布を搗(つ)いて粉にしたもの)等の献上もあり、さらに男仲間二人、女中一人を邸に奉公させるか、その代金を納めることになっていた。

 白符神明社の沿革では、同社は知行主松前景廣の発願によって、木古内村男女(さめ)川神社と同じく寛文六年(一六六六)に創建されたといわれている。しかし、景廣は万治元年(一六五八)に死亡しており、寛文六年の創立が正しいとすれば、河野系松前氏の二祖宣廣の勧請によるものと考えられる。

 白符村の戸口の変化を見ると、寛文十年(一六七〇)の『津軽一統志』では、家は二十軒ありといい、天明六年(一七八六)の『蝦夷拾遺』では、知行主は松前貢(みつぎ)(廣典(のり))で戸数は七十余、人口は二百五十余人であり、さらに文化五年頃(一八〇八頃)の『村鑑下組帳』では、家数は五十六軒、人口は二百十二人、図合船十二艘、磯舟二十九艘であると記録している。

 白符村の運営については、名主、年寄、肝いりの村方三役と組合頭によって村治運営されていたが、これら村役の変遷については、白符神明社の度重なる火災焼失によって村方文書は一切なく、『宮歌村文書』や『常磐井家文書』、『白符村大神宮棟札』等によって見ると次の通 りである。






























































































































































































元文四年(一七三九)
 
肝 いり

村  老

小  使


加 藤 彌左右衞門

佐々木 喜三右衞門

藤 枝 伊四郎
   
元文五年(一七四〇)
 
名  主

村  老





小  使

加 籐 彌左右衞門

佐々木 喜惣右衞門

阿 部 五郎助

藤 枝 平 助

藤 枝 喜三郎
 
宝暦八年(一七五八)
 
名  主

年  寄



小  使

徳右衞門

七兵衞

左平次

松兵衞
   
安永七年(一七七八)
 
名  主

年  寄

小  使

阿 部 久四郎

冨 山 七右衞門

久次郎
   
天明二年(一七八二)
 
名  主

年  寄



小  使

安 辺 善左衞門

冨 山 七右衞門

与右衞門

傅太郎
   
寛政十年 (一七九八)
 
名  主

年  寄





組  頭

阿 部 久四良

佐之助

喜太郎

長四良

戸左衞門、吉右衞門、利四良、

平五良、久六、八兵衞、

吉太良、徳兵衞、浅之助
   
文化十三年(一八一六)
 
名  主

年  寄

吉左衞門

五兵衞門

権右衞門

傅 八
   
文政元年(一八一八)
 
名  主

年  寄



惣  代

喜左右衞門(藤 枝)

権右衞門(阿 部)

傅 八 (佐々木)

与治右衞門
   
文政二年(一八一九)
 
名  主

仮名主

年  寄



百姓代

組  頭

越後屋 徳右衞門

利四郎

喜衞門

傅 八

藤太郎

久 六、久 助、久左衞門、

石之助、専次郎、八郎治、

長 松       
   
文政五年(一八二二)
 
名  主

年  寄



百姓代

勘右衞門

善左衞門

喜右衞門

平三郎
   
文政十年(一八二七)
 
名  主

年  寄



百姓代

阿 部 善左衞門

平三郎

喜右衞門

左右衞門
   
文政十一年(一八二八)
 
名  主

年  寄



百姓代

徳右衞門

喜右衞門

傅 八

藤太郎
   
文政十二年(一八二九)
 
名  主

仮名主

年  寄



百姓代

組  頭

越後屋 徳右衞門

加 藤 利四郎

喜右衞門

傅 八

藤太郎

久 六、久 助、久右衞門、

石之助、傅次郎、

八郎太、長 松
   
天保九年(一八三八)
 
名  主

年  寄



百姓代

組  頭

阿 部 善左衞門

越後屋 喜右衞門

阿 部 権右衞門

笹 森 勘 七

与右衞門、八郎治、左平治、

富治郎、石之助、与次右衞門

久 助
   
天保十四年(一八四三)
 
名  主

年  寄



百姓代

頭  取

権右衞門

藤左衞門

勘 七

与次右衞門

清 松、吉 松
   
弘化三年(一八四六)
 
名  主

年  寄



百姓代

勘 七

幸治郎

治右衞門

佐平治
   
嘉永五年(一八五二)
 
名  主

年  寄

百姓代

阿 部 権右衞門

笹 森 勘 七

藤 山 藤次郎

喜 多 与次右衞門
   
嘉永七年(一八五四)
 
名  主

年  寄





百姓代

与治右衞門

与右衞門

勘右衞門

佐平治

佐治兵衞
   
万延元年(一八六〇)
 
名  主

年  寄



百姓代

組  頭

阿 部 権右衞門

加 藤 佐平治

佐々木 与右衞門

藤 枝 佐治兵衞

八郎治、長次郎、佐代吉、

平三郎、久 六、長四郎、

次左衞門、松兵衞
   
文久二年(一八六二)
 
名  主

年  寄

百姓代

阿 部 善左衞門

佐平治

勘 七
   
慶応元年(一八六五)
 
名  主

年  寄

年寄仮役

阿 部 伝左衞門

勘 七

利四郎