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第二節 山岳信仰と岬信仰

  その地に住む住民が、日々の生活で山や岬を眺め、その山の変貌(ぼう)を見て天候や気候の変化を知り、そして自分の生活を考える。そのため山岳は住民生活に欠くことが出来ないし、多くの恵みを与えてくれた。そこで山は神聖な処として山岳信仰が生まれた。また、その信仰の媒体となったのが修験者達である。

 我が国の山岳信仰は平安時代の中期に役小角(えんのおずぬ)によって大和大峰山に展開され、ここから熊野、出羽三山(羽黒・湯殿・月山)へと発展し、特に東北地方の山岳信仰は中世においては、天台、真言の僧侶、修験者(山伏)等が住民の山岳信仰を宗教色の強いものに作り上げて行った。 さらにこの出羽三山を中心とした東北の山岳信仰は北上を続け、海峡を控えた深浦円覚寺(西津軽郡深浦町)や恐山(青森県むつ市)、さらには津軽相内(北津軽郡市浦村)等に停滞して、海を越え蝦夷地へ進出する機会をねらっていた。

 津軽相内の安藤盛季が南部氏との戦いに敗れ嘉吉三年(一四四三)蝦夷地に逃れた際には永善坊道明法師や阿吽寺(あうんじ)等の真言宗の僧侶や修験者も同行し、これらの人達が蝦夷地に定着することによって、この地方の山岳信仰が展開していったと思われる。また、本地仏(神と仏を同体とする)をもった神道の別 当的な人達も多く、松前八幡社白鳥家、馬形社の佐々木家もこのような役割を負って渡航した人達である。







大千軒岳




 これら神仏混合の宗教の聖地として設けられたのが、その地方の主峰であり、岬や島であるが、その中心をなすのは大千軒岳であろう。『福山秘府・年歴之四』によれば、大千軒岳は近世初頭に於ては、淺間(せんげん)岳または欝金(うっこん)岳と称したと記録されている。これは山岳信仰の浅間(あさま)信仰を導入して、山自体を御神体としていたと思われ、この山に対し灯明を備える意味の灯明岳、神聖な山へ登拝するための袴腰(はかまごし)(越)岳などの名が付されたもので、古来から千軒岳は神聖な山岳信仰の中心であった。この山が近世初頭砂金金山(かなやま)の開削によって多くの金掘りが入り込み、その砂金掘の家が千軒もあったということで、現在の千軒岳に改称されたものと思われる。また、近世福島町内で展開されて行く神社神道のなかには熊野神社、羽黒神社、千軒神社、丸山神社等はその遺形である。これらの神社奉斉者も神仏習合した山岳信仰の修験者が多く、常磐井家は例外として、白符の冨山家、宮歌の藤枝家等は修験者の出身である。

 一方岬信仰については、津軽海峡を目前にして本州側に停滞して渡航の機会をうかがっていたこれら修験者達は、ようやく海峡を横断して当地方に到るには先ず、その地域に突出する岬を目標として渡海を続け、岬に無事の航海を祈り、到着後は感謝の心をこめて岬に祈り、これが岬信仰となったのである。

 町内には東に矢越岬、西に白神岬があり、この岬を本体とする岬信仰が続けられてきた。矢越岬は文治五年(一一八九)の源義経の渡航伝説では、この岬まで船が近づいたとき、岬上には暗雲が漂い、いかにも魔性が住みそうであったので、義経が岬に向かって矢を射てようやく無事に当地に上陸したという伝説がある。また松前大館主の下国山城守恒季は行いが荒く秕(ひ)政が多かったため、明応五年(一四九六)宗家の秋田桧山城主の安藤(東)尋(ひろ)季が、渡航して恒季を自害させ、副将の相原周防(すおう)守季胤(すえたね)を主将とした。永正八年(一五一一)季胤が熊野神社を建立すべく神意を伺ったところ、矢越岬には海神が住んでおり、この海神の霊を慰めるため、先ず人身御供(ひとみごくう)をするようにとの神意で、季胤は松前で若い娘を神に供えるため選び出し、船に乗せて矢越岬に漕ぎ出し、娘達の着物の袖に石の重しを入れて、次々投げ込み人身御供とした。これによって海神も静まり、人々はこの岬を神の岬と信仰するようになったといわれている。









矢越岬








 白神岬については、アイヌ語のシララカムイ(浪が岩に砕けている処)という説と、白い神様が祭られている処という説があり、古来神聖な岬として崇(あがめ)られてきた。この岬を越える船の水主(かこ)達は、必ず岬で「南無八幡大菩薩」と唱え、岬に拝礼して航海の安全を祈ることを通 例としていた。

 また、ソッコ岬の崖上(字松浦)にある楚湖神社(現松浦神社)は、漁業の神様として住民の信仰が厚い。現在の祭神は猿田毘古(さるだひこ)神であるが、古くは鮫を御神体とした祖鮫(そごう)明神で、海上安全と豊漁を願う神であったといわれ、これも岬信仰の変形化したものと考えられている。