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第四節 蠣崎氏の台頭



 上ノ国(桧山郡上ノ国町)に在って、蠣崎氏の入婿となった武田彦太郎信広は、養主蠣崎季繁の没後、上ノ国館(花沢館・勝山館)に居城し、蠣崎姓を名乗り、和人居住北限地域にあって武威を張っていたが、明応四年(一四九五)五月六十四歳で没し、同地の医王山に葬った。この医王山は勝山館の背後にあって、薬師如来を祀ったことからその名が付されたと思われるが、後にいたって、夷(えぞ)の王にもじって、夷王山と呼ばれるようになった。

 信広の長子光広は三十八歳で蠣崎氏の家督を嗣いだが、松前氏は信広を初祖とし、光広を二祖としている。光広は武力、謀略に秀で、蠣崎氏を蝦夷地内和人居住区内の代表的地位 を獲得するまでに至っている。秋田安藤氏の同族として松前大館に派遣された下国定季は、主家の命を受け、道南各地に点在する各館主を管理する守護職的立場にあったが、定季の没後その子山城守恒季が家督を継いだが、恒季は粗暴の行為が多く、罪のない人を殺害したり、人身御供(ごくう)として若い女性を矢越岬に沈めたりということで、住民の評判が極めて悪く、家臣達は心配して宗家の山安藤氏にそのことを内通 した結果、安藤氏は明応五年(一四九六)十一月討手を差向け、恒季を自害させ、松前大館には守護職として相原周防守政胤(たね)の子季胤を配置し、さらに村上政儀を副将に配置した。これは蝦夷地内の支配体制の変化を示すものでもあった。その後和人と蝦夷との小競合(ぜりあい)が続いたと思われるが、さらにこの支配体制を崩壊させたのは永正九年(一五一二)の蝦夷との戦いである。

 この年四月再び東部の蝦夷が蜂起して、箱館、志濃里、与倉前(共に函館市)の三館を攻撃、三館主は共に戦死し、この地域の和人の多くは西部に逃れた。翌永正十年(一五一三)六月蝦夷軍は蝦夷和人地の中心地大館を攻撃し、主将相原季胤、副将村上政儀は自害、落城したが、この蝦夷の蜂起によって、福島町館崎地区にあった穏内館も陷落し、館主こも土甲斐守季直が自害して果 て、館も焼却されてしまったことが考えられる。これは、蝦夷の蜂起による乱ではあるが、上ノ国館主の蠣崎光広が大館欲しさのあまり、蝦夷軍に大館を攻撃させたという陰謀説もある。それは大館主は安藤氏の代官として守護職的に各館主を統轄する権限を与えられていたからである。

 翌十一年(一五一四)三月空城となった大館に突然上ノ国館主蠣崎光広が長子義広と共に、小舟一八〇艘に分乗して上ノ国から松前に移ってきた。そして大館を改修して徳山館と名付け、ここを本拠とし、上ノ国には同族を配置した。光広は徳山館に入った理由を書き家臣に持たせて、山安藤氏の了承を受けようとしたが二回にわたっても、安藤氏の了承を得られず、紺備後という能弁の浪人を使って交渉し、ようやく了承を得、蠣崎氏は山安藤氏の代官的地位 を獲得するに到った。その後の蠣崎氏は欺瞞(ぎまん)と謀略によって次第にその地歩を固めて行った。永正十二年(一五一五)族長ショヤコウジ兄弟を中心とした蝦夷軍が徳山館を攻撃したが、光広は和議を申し入れて、族長らを館内に請じ入れ、和睦の宴を張ったが、家臣達には武装させ、酔い伏している間に斬り込み、ショヤコウジ兄弟をはじめ一党を斬り殺し、遺骸を小館下の東に埋め蝦夷塚と称した。光広がこの斬込の際に用いた大刀は、さきのコシャマインの乱後信広が蠣崎季繁から拝領したもので、のち松前家の重宝として伝えられたものである。

 享禄二年(一五二九)三月西部蝦夷の首長タナサカシ(又はタナイヌ)が蜂起した。この首長の本拠は瀬田内(瀬棚)であったと思われるが、松前氏三世義広は自ら上ノ国和喜之館(勝山館の別 名か)を守り、郎党工藤九郎左門兼と致(すけとき)の兄弟に兵を授けてこれを討たせたが、祐兼は瀬田内甲野(かぶとの)(北桧山町)に敗死し、弟祐致は熊石町雲石に逃れた。タナサカシ軍は和喜之館を包囲していたとき、義広は和睦を申し入れ、償として多くの宝物を館前に広げた。蝦夷軍は喜び宝物を争っているとき、義広は館の櫓から強弓をしかけ、あわてた蝦夷軍は逃げ散ったが、天ノ川は雪解水が増水して渡ることができず、館下の菱池に追い込んで皆殺しにしたという。

 さらに天文五年(一五三六)にはタナサカシの女婿タリコナが積年の恨(うらみ)を果 すべく攻撃してきたが、この際も和睦をして酒宴を開いて討ち果すというように、謀略と武力を背景に偽わって和睦し、そしてその主謀者を騙(だま)し討にするという方法がとられていたので、和人と蝦夷との不信はつのるばかりであった。

 松前氏四世蠣崎季広はこのような蝦夷との不信を継続することは蠣崎氏の将来に悪い結果 をもたらすとして考え出されたのが、夷狄への商船往還の法度で天文二十年(一五五一)に定めた。この法度は先ず瀬田内首長ハシタインを天ノ川の郡内に置いて西部の尹(いん)(代表)とし、東は知内のチコモタインを東部の尹とし、互いに尊敬し合うことを約束し、諸国から交易に来る商船から年俸を出させ、その内から配分して両首長に与えたが、これを夷役(いやく)と称した。またこの両首長居所の沖を通 る商船は必ず、帆を下ろして一礼した上で往還することなどを定めたため、それまで不信が続きにくしみ合っていた和人と蝦夷との間は融和し、蝦夷も季広のこの法度を評価し、季広を神位 得意(かむいいとく)と恭敬するようになったという。

 季広は蠣崎氏の地位を強化するため秋田山(能代市)の安藤氏本家と連携を強化すると共に、十二男十四女という子宝に恵まれ、これらの子を活用して奥州北部とのつながりを強めた。三男慶広を嗣子と定め、四男正広は天正十四年(一五八六)山城主安藤愛ちか季朝臣に従い、仙北高寺の陣中で腫物(はれもの)を煩い三十九歳で没し、九男中広は同じく愛季に従い鹿角(かづの)の戦に参戦し二十一歳で討死している。また息女では三女を津軽北郡司喜庭伊勢守秀信に嫁し、六女は秋田湯河湊城主安東九郎左衞 門督茂季の御台所、八女は秋田神浦(かのうら)兵庫頭季綱の内儀、十一女は同じ神浦兵庫守の一族佐藤彦助季連の内儀となる等、奥州北部の豪族を血族としている。

 また、女子の多くは南条氏、下国氏、河野氏、村上氏など、旧蝦夷地内館主の末裔と婚を結んでいるし、息男の多くは家臣となって家政を助けている。

 さらに季広は積極的に安藤氏に協力し、天文十五年(一五四六)西津軽深浦森山の館主飛騨定季反乱の際は、搦手の大将として小泊に渡り、ここから参陣して攻撃したり、秋田領内の戦闘に一族を派遣して主家安藤氏を援助するなど、安藤氏旗下の武将としても名を馳せるようになった。

 山城主安藤実季の姉は津軽浪岡城主北畠右門督顕慶(すけあきよし)に嫁していたが、天正十八年(一五九〇)二月大浦(津軽)爲信がこの城を攻撃してきたので、実季から顕慶救援を依頼され、季広は八十三歳の高齢にもかかわらず出陣しているが、この戦で北畠氏は敗れ、浪岡北畠氏は断絶している。これは季広の子慶広は、豊臣秀吉の小田原征伐や奥州仕置の行われた年で多忙だったので、隠居の季広が代って出陣し、安藤氏に体面 をつくっていたものと思われる。

 この天正十八年は蠣崎氏の宿願であった桧山安藤氏の臣下を脱する絶好の機会であった。この年小田原の北條氏征伐を終えた豊臣秀吉は揮下の大名を投入して奥羽の平定と検地を行い、その版図を拡めつつあった。特に津軽・秋田地方は前田利家、木村重茲、大谷吉継等が当っていたが、その報を受けた慶広は九月十五日津軽に渡海して前田利家に面 会し、秀吉への取り成しを依頼した上、桧山安藤氏を訪れた。安藤氏は城主愛(ちか)季が天正十五年に没し、その子実(さね)季が十三歳で家督を嗣ぎ、この年十六歳であったので、実季と共に上洛し、十二月秀吉に謁見して諸侯と同格の待遇を受けた。さらに文禄二年(一五九三)正月二日「朝鮮征伐」のため肥前名護屋城に滞在中の秀吉を労問した慶広に対し、秀吉はいたく喜び、早速慶広を志摩守に任じ、江州に馬飼所三千石を与えようとしたが慶広はそれを辞退し、木下吉政を通 じて国政の朱印(蝦夷地の領主)下賜を願い出、同月六日には、「諸国より松前に来る人、志摩守に断り申さず狄の嶋中自由に往還し、商賣せしむる者有るに於ては斬罪に行う可き事。志摩守の下知に相背き夷人に理不尽の儀申懸る者有らば斬罪に行ふ可き事。諸法度に相背く者有るに於ては斬罪に行う可き事」という御朱印の制書を与えられ、これによって蠣崎氏は、安藤氏の家臣の域を脱して諸侯に準ずる待遇を与えられた。志摩守も島の守(かみ)をもじったものといわれている。慶広は早速この事を国元に前田利家から頂戴した茶と共に送ったが、老父季広は大いに喜び、この茶を釜で煮て諸人に振舞ったという。

 翌天正十九年(一五九一)に南部九戸政実の乱が発生し、徳川家康、豊臣秀次等秀吉の重臣達がこの乱平定に出向した際には奥州の秋田実季、津軽爲信等に互して蠣崎慶広も諸侯の一人として出征し、しかも蠣崎氏の率いる一隊には蝦夷がブシ矢を持って参加し、「其矢ニ中ル者微傷と雖斃(たお)レサルナシ、賊兵之が爲ニ大ニ困シム」(『松前家記』)とあって、その攻撃方法で異彩 を放ったというが、一面では蝦夷人もこの戦闘に参加させるだけ、蠣崎氏と蝦夷との協力体制が良好となってきたと見る面 もあり、また、蝦夷地の領主としての蠣崎氏の実力が備わってきたと見ることができる。