新サイト用




















第七節 変災

 福島町は中世の時代から多くの災害を経験している。地勢上福島川の氾濫(はんらん)や、海岸に連担する漁家が、一度大きな波浪があると、大きな被害となった。さらに東北地方に冷害があれば、村民の生活に直接影響がある。また、医療の発達していないこの時代には、疫病、天然痘(疱瘡)の流行病が多く、抵抗力の少ない児童の罹患が多く、生れた子供が十歳までにその半分は死ぬ と言われた。

 これら変災を常磐井家が保存する『福島沿革史』、『戸門治兵衞旧事記』、各年代日記等によって見れば、次のとおりである。






明応元年(一四九二)

野火烈しく月崎神社焼失、春日ノ(の)作タル(たる)御神像光ヲ(を)放シ(し)飛失タリ。

天文元年(一五三二)

四月ヨリ(より)九月マテ(まで)雨降ラズ(らず)。

天文二十一年(一五五二)

南条越中広継妻(第四世領主季広長女)逆意顕れ生害し、長泉寺を牌所としたが、この年より三十三回忌の済むまで福島川にサケ上らず。

天文二十三年(一五五四)

夏たびたび大洪水あり、冬大雪降り山を成せり。

天正十三年(一五八五)

折加内川(福島川)にサケ元の如く入る。

慶長十六年(一六一一)

十月東部津浪起て和人、蝦夷多く死す。

寛永元年(一六二四)

折加内村に火災度々発生し、村中絶せんとし、月崎神社の神託により、福島村と改称。

寛永十七年(一六四〇)

六月十二日東内浦岳焼山崩、十三日滄海動揺してつなみ起る。百余艘の船並和人、蝦夷溺死、十四日国中闇の如くして前後を弁せず、硫黄(いおう)の灰降り天地震動甚だしく毛虫降る。十五日天漸く明かなり。

寛永十八年(一六四一)

疱瘡流行、子供多く死す。

万治元年(一六五八)

春夏疱瘡流行して人多く死す。

秋亀田大熱病、疱瘡人多く死す。

寛文二年(一六六二)

三月六日より二十日まで日月紅の如し、国中闇夜朝夕焼火を点ずるに至りぬ 。此に於て村民一同相謀り神明社に参寵し、祠官常盤井今宮に願出御神楽修行、爾後正・五・九月祭月定め永代之を勤むることにせり。天下太平、当所安全の爲なり。(これ松前神楽の始期という)

寛文三年(一六六三)

七月十二日夜乙部洪水、沢に蛇が出、所々山崩れる。

七月十四日宇須嶽焼出。

寛文四年(一六六四)

秋蝦夷地に鼠(ねずみ)出て人を喰ふ。冬慧星出る。

寛文五年(一六六五)

太平山(上ノ国)鳴り天ノ川河口塞(ふさ)がる。春慧星出る。

寛文六年(一六六六)

冬中東風吹かず国中米絶て飢饉に及ぶ。領主米・鮭・昆布をもってこれを救う。

六月十一日一の渡の川を渉るとき死亡したものあり。

寛文七年(一六六七)

正月大雨前代未聞。

九月領主蠣崎広林を使者とし、松前数年困窮の趣言上、米三千石拜備。

元禄五年(一六九二)

疱瘡流行、子供多死す。

元禄六年(一六九三)

八月十五日夜不思議な星出る。

元禄七年(一六九四)

七月二日より内浦岳焼灰降り沖中の船々灰に閉さる。

元禄九年(一六九六)

津軽・秋田の沖ノ口止まり、大飢饉死者甚し、松前一人も餓死者なし。二月十八日秋田越前屋の舟米四五〇俵積来り、夫より米舟続々来る。

元禄十四年(一七〇一)

七月二十九日大風雨高浪にて亀田村洪水。

八月六日大風雨畑作皆無、破船数百艘、秋より当島前代未聞の飢饉、領主十二月より施粥(がゆ)二万人。

宝永元年(一七〇四)

三月より八月まで疱瘡流行子供多く死す。

寛保元年(一七四一)

七月十七日地震之様に度々相聞へ大島に候由。十六日夜中より十七日の明まで城下、及部迄一面 に焼灰降申候。上在、下在共降候由、所により七、八分、壱寸程まで降り候由。十九日西風にて天気能明前より雨降り、海上夥敷(おびただしく)鳴渡り、無程明迄の内津浪打来り前浜之澗掛り之船不残一時に打揚並之家共潰家半潰家共に有之候。三鷁(さんげき)丸船は大松前役所之下迄打揚、大松前橋は欄干(らんかん)付候侭にて馬坂橋之上へ打揚、同橋へ能代船弐百石計りの船入申候。浜通 りの家へは王餘(おうよう)魚、タナコ抔(など)入候。ヱゲフ(生符-松前町字大磯)畑中へは磯魚、色々の貝類浪に打揚淤泥(おでい)之内に有之候。札前村より熊石村まで村々溺死都合千三百七十人余、百姓旅人共に家数准之。新谷より吉岡村迄十九軒、疵家二十軒、溺死十六人右之通 公儀へ御断あり。

福島村死亡者一人もなし。(『常磐井家文書』)皆々稲荷山へ逃上る。下町、寺町五、六戸浪ニ取られ、上町は何事もなし、山沢崩痛む。(『福島沿革』)

天明三年(一七八三)

凶作、不漁わらび根海草を食したれども餓死せし者無之、続々内地より移住者入込て餓死を免れたり、領主より蔵々吟味致し米改の上売米穀させたり。村々名主より家内を書上させ、壱人に付弐合五勺、壱はかり百文宛町役所より買受仕候。内々売は十二両、十三両位 也。(『福島沿革』)

同年

津軽凶作にて四十万人がし仕候。仙台、秋田、南部夥敷死別而(して)仙台、津軽人多く死去。(『戸門治兵衞 旧事記』)この年より寛政七年まで十四年間ニシン群来ず。

天明四年(一七八四)

春米船下り申さず候。内二十五両迄仕候。

寛政二年(一七九〇)

この年より太櫓より城下まで悉無(しつかい)、乙部は三月一日少々くき、殿様へ弐百匹上り候。益々困難なり。殿様より四月上在諸村稼商売税金御免となる。蝦夷地二(に)・八取(はちとり)鰊夏漁業総て御免となる。古宇までは御免。黒米三両五、六分、秋田米三両壱歩、本庄三両弐歩。

享和三年(一八〇三)

十一月十六日夕七ツ時(午後四時)上町西村茂右衞門火元にて、隣家久太郎上方二軒隣紋兵衞 方は潰家とまり。東の方下通吉四郎、治兵衞、伝七、林兵衞、彦兵衞、善八、次右衞 門、清八、市右衞門、三太郎、治五右衞門以上十三軒焼失。治兵衞表口六間、裏行八間。火元寺入七日にて御上様引廻し。

十一月月崎社ニ灯明の如き火形上る。

文化元年(一八〇四)

八月晦日九ツ半時(午後一時)ひかた大荒、大浪、城下大被害。

福島村にては壱人も死不申候。皆々稲荷山江逃上り、下町、寺町家五、六軒取られ、町何事も無之、山沢崩痛む。

文化二年(一八〇五)

閏八月三日大洪水諸木流杣子九兵衞溺死、死体日方泊に寄り上る。

文化四年(一八〇七)

正月朔日朝五ツ半頃(午前九時)神明宮御拜殿中未明に参詣相済候跡焼失、御神鏡、御獅子、金幣、鰐(わに)口、大太鼓、御幕焼失、笹井肥後差扣となる。

新社出来、肥後正改名治部正武彦となる。

天保三年(一八三二)

疫神祓被仰出候間、明十二月二十日迄に可罷登候(風邪流行か)。

天保十三年(一八四二)

五月疱瘡はやる地震度々有、凡三十日計、其の音雷公の如し。稲荷山、館古山江小屋掛致、釜谷明神江小屋掛致し、干潟泊りにて山の上小屋掛致す。

安政二年(一八五五)

六月大旱。

七月二十日大地震津浪あれども痛なし。

安政三年(一八五六)

九月月崎出火三戸焼失。火元兵五郎。

安政六年(一八五九)

八月十五日巽風にて日方泊家皆流人々山へ逃げ上り、釜谷神社神木椴木三本倒れ、南部よりの栄寿丸吉岡沖ノ口へ船改の爲廻航せし処破損に及べり。

十月一日夕四ツ時(午後十時)日方泊出火十一戸焼失、安之助火元。

文久二年(一八六二)

正月より八月まで悪病流行、犬多く死す。

文久三年(一八六三)

六月十四日大雨洪水、三本木の大木一本流れる。むかしたもの大木三本ありしという。

八月七日吉岡峠あられふる。当村四ツ頃大あられ降る。

元治元年(一八六四)

寺町火元幸七、十一戸焼失。

十一月十六日当村中願に付、疱瘡平癒之御神楽勤行仕候。

慶應元年(一八六五)

夜八ツ時(午前二時)福島村領地しとまへの崎細澗之磯江三国の谷通丸上破舟いたす、千三百石の船。二十七日また破船七百石の船に御座候。是も当村にて諸事あつかい仕候。皆々いたみ鍛冶丈五郎九十両にて買求め。七月二十二日昼九ツ半(午後一時)下りヒカタ大風、大々時化夜四ツ頃大波、干潟泊り皆々痛み、月崎神社拜殿後の小川、神木まで波上り、小谷石も家大痛み。吉岡宮歌澗掛船大小九艘破舟、海死六人、澗内の沢に三人寄り、白符腰掛石弐間計江女人死体上る。

八月十二日東風にて大風時化夜四ツ頃大あられ降る。此度初雪に御座候。

明治元年(一八六八)

十一月二日福島村山崎徳川軍との大会戦、さらに町内合戦の上、本陣法界寺を焼き松前藩兵敗退。法界寺のほか門前の家三戸類焼したほか、慕舞五、六戸焼失。白符、宮歌、吉岡、礼髭村残らず兵火に罹る。