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第一節 近世宗教の展開

 慶長九年(一六〇四)松前氏(蠣崎氏)第五世伊豆守慶広が徳川家康から、蝦夷地采領の黒印制書を拝領して松前藩が立藩された。この藩で宗教政策を管掌したのは寺社町奉行所である。この奉行所の設置は慶長年間の記録にも見え、寛永年間には制度化され、民生・司法・蝦夷のことを主要職務とし、町奉行所としていたが、その後、神道・仏教を加えて寺社町奉行所および奉行と名称が変更された。

 この寺社町奉行の名称変更について松前八幡社白鳥家の『八幡録』においては、








元禄五年ニ隼人、若宮両人江被仰付候は向後社人之支配致両人可相勤旨被仰付候。尤隼人儀は御禮式先ニ可相勤様傳承り罷在候。

隼人病死仕候忰勘太夫与申者家督ニ罷成、官職之儀被仰付上京仕、於吉田家官職相調親通 り隼人佐与改相勤罷在候。


とあって、元禄五年(一六九二)松前八幡社と松前神明社の両神主が、領内社人の支配役を命ぜられ、両人の藩での序列は八幡社を上席とすることが定められているが、これが直接町奉行の支配下に入ったか否かは明かではない。さらに前掲史料は次に、







正徳二年辰正月八日隼人佐江初而頭御役以後代々可相勤候様被仰付。猶又御殿中御禮式以後獨禮可申上様被仰付被下置候。時之寺御奉行高橋淺右衞 門殿ニ御候。


とあって、正徳二年(一七一二)に寺社奉行の高橋淺右衞門を通 じて社頭職に任ぜられたが、これは寺社奉行という単独のものではなく、町奉行の兼摂の役で、両者を合して寺社町奉行の名称が用いられ、このころから正式に寺社町奉行所の機能が発揮されている。

 松前藩の藩法の集大成ともいうべき『松前福山諸掟(おきて)』の寺社町奉行の項においては、













一、



毎月仏并親類江之致精進、或者宮寺江参珠数其外後生之道具不爲取者に宿仕間敷候事。

若此旨相背におゐてハ急度曲事可申付者也。

寛永十六年七月廿日 是歳幾利支丹宗門爲制禁

 但此札寛文十三年ニ行



一、



きりしたん宗門前々より雖爲御穿鑿(さくせん)弥以可致吟味之旨、今度被仰出候、仏を不信仰或者珠数其外後生之道具并寺判不爲取持、不審成者於有之者可申出、其品ニより褒美可爲取之、若他所よりあらわるゝニおゐてハ従公儀被仰出之通 其五人組迄可行(爲)曲事者也。



寛文十三年五月十日



とあるように、寛永十六年(一六三九)のキリシタン宗門禁制による住民への対策として、神道または仏教の国教を信仰し、月一度は必ず、社参または仏参して信仰の証しを立てることを義務付けている。従って中世末以降に福島地方に展開されてきた、神仏習合(神とも仏とも分別 できない)の信仰が、次第に神道、仏教に分離されてくるが、それでもなお丸山薬師信仰のように、慶應三年(一八六七)の幕末にいたっても、山岳信仰の遺形として、丸山神社の祭祀は猿田彦大神を祭神として神主笹井家が担当し、同じ社に祀る薬師如来の信仰は釜谷の了然という山伏が別 当となるなどの変則的な在地信仰も続けられている。



【松前藩の神道政策】 松前藩の神道政策は前述のように寺社町奉行より発せられる神道政策を、和人地内の管下神主に浸透させ、これを守らせることを主眼として正徳二年正式に社頭職両人(八幡、神明両白鳥家)が任命されている。この社頭職は、社家頭(しゃけとう)、注連頭(しめがしら)また一書にはシカリ役としており、各社家の上位 にあって藩の意を帯して、神道体制の強化に努めることであった。また、この社頭職は京都の神道卜家(うらべ)の司家吉田家と深く結び付いていて、大神主あるいは正神主と普通 神官より高い位の待遇を受けており、神官跡目相続者の教育、吉田社家からの継目相続の介入、神主資格と叙位 任官等に深くかかわっていた。蝦夷地は京都から見れば極めて遠隔の地ではあるが、しかし、この規律は厳格に守られていた。奥羽地方においては神主資格保持者は少なく、村落では堂守別 当的な存在が多く、かつまた神仏習合の修験者が多かったことから見ても、蝦夷地神道は神官の統制を含めて厳密に行われていた。常磐井家記録のなかでも、相続者がしばしば上京しているが、これは、吉田卜部(うらべ)家からの神主資格の取得と、敍位 敍官のための上洛であった。社頭職である松前八幡社白鳥家、松前神明社白鳥家の両家は、その祖は陸奥国和賀郷(岩手県和賀地方)に発し、上ノ国八幡社に奉仕し白鳥称宜(ねぎ)と称したが、その子なく修験者大蔵院が二代を受け、三代海蔵院が神道神主となり圓太夫となって大館(松前)館神八幡に奉仕した。寛永二年(一六二五)福山館の後方(現さくら見本園位 置)に松前藩主松前氏の氏神として八幡宮(社)が創建され、圓太夫がその祠官となった。四代森太夫には二人の子があり、兄若宮が別 家して神明社(伊勢堂)祠官となって若宮太夫を称し、弟隼人佐(はやとのすけ)は八幡宮社司を継ぎ、両家は、両白鳥家として神道觸頭の地位 を保ちつつ、明治まで営々と栄えた家柄である。また、この両家を補佐する准觸頭に馬形(まがと)神社社司の佐々木家がある。これは八幡社白鳥家に嗣子がいない場合、佐々木家から養子を迎えることの慣例から、このような待遇が与えられたものである。

 社頭職がどのような活動をしたかを示す史料に『白鳥氏日記』がある。この第一巻(天明~享和三=一七八一~一八〇三=筆者白鳥家神明社四代遠江守(とおとうみのかみ)政武)によれば、



















寛政十年
 十二月一日島村一家中へ笹井佐波當家江出入相止メ申義書状ニ而趣左に相記し先年近在鯡 くき候砌者家諸士打揮し鯡取申事ニ而船役並御印も相給申候然ル所近年近在邊不漁ニ付家諸士者一統ニ蝦夷地江者鯡 取ニ不参御座候所左波義只壱人家ニ而雪中遠蝦夷地迄乘込居候間御用之事も相欠キ罷在候ニ付親父者家中へも無面 目年々罷在候仍而先達而同人江鯡取ニ参り候義不宜様申入候へとも承及候處此間新艘ヲ仕立候由故我大病之便申遣候仁江船はき候故見舞ニも参り兼るよし相聞へ候故親父殊の外立服ニ而又候遠蝦夷地鯡 取ニ参り候義相不止候義旁々以不相済候故右之段只一家之者共へ計申遣候所同月三日永井勘九郎土門治兵衞 住吉達右衞門右三人名代トして一家弐人村方小役(使か)多七ト申仁参り候仍而左波義惣村中申訳可申上様ニ私村役人名代ニ罷上り候ト申候扨而左波義者人之内只壱人のミ年々遠蝦夷地迄雪中もいとわす罷越候義ハ百軒餘り之村中扶助成兼候而下々難 澁ニ而 参り候 哉又者只壱人人養生旨海上大切ニ氣間外内職ニ而海上遠方之商賣者無用致し候へと申而も同人聞入無大切之事ヲ欠其上かけい無身分として欲心ニ而参り候哉此両様承度候ト申候所多七申ニハ其義者村鯡 取船と申ニも無之又同人よくニ而参るニも無之只古取來り候ト申故古來之諸士家一統ニ鯡 取候筋申聞候所彼仁元來他國來り近年島村有付ノ仁配ノ其義ハ不存無答候又彼仁申出候ハ先申聞被下候村扶助之義ハ左波商賣ヲ留守いたし故に申ト言義も成兼候仍而此上者村名主其外之役人來り右之訳申而も私申義ニ相替る事無候と申候故然ハ島之大村ニ有之名主も年寄も皆貴殿之意けん外ニ仕案もふんべつも無き役人ニ而貴殿ハ惣村之事知り候而惣役人中をないかしろに致候申分故此上村之役人中相尋候ニ不及貴殿壱人之意けんニ埓明キ不申然ハ是迄之通 り左波遠蝦夷地へ乘込海上萬一之義有之候時者役人中何ト此方へ相断り候哉又寺所へも何ト断候哉其上京都吉田御本所へ之断共ニ今此所ニ而一々申訳ヲ申聞セ入候方ニ安堵致し候様ニ被申へしと申されハ是又當惑之躰ニ而外弐人者も同し多七申す□仕候段遠江前後も不存申上候義真平御免被下度趣とつて申事ニ御座候故先ハ村へ帰り候而とくと役人中ニて相談も承り候而此方へ申出べきと申候所右三人同し申候ニハ此度之義甚尤ニ候義ニ而仍而左波江ハ何分村方相談之上ニ而品相立可申様ニ我々如何様とも申入筋を付可申上候間何卒左波殿へ御出入ノ義前々之通 り御免成被下度由重ねて申事ニ候間然ハ其義ハ雪中之砌ト申行來数度も氣之毒ニ候間右願之義親父江願入見可申候而明日各々参へしト申返候
四月四日親父江申談仕候所願之通 りニ致し遣せト申事ニ而昼頃右之三人夜前願之趣ヲ爲承度参候故仍而左波義者前之村通 り各願通りニ可致候間前文之三人申立通り村中相談ニ而笹井家江品を付候様ニ被下度可被申しト申返し候
十二月三日島村組合甚兵衞并ニ一家之内勘之丞右両人一家中之書状を持参致し段々左波一件之義ニ付先日御書状并ニ先日三人之者共江も被仰下候御義御尤千萬奉存候仍而以來當村役人相談之上ニ而遠海上之商賣ハ相止させ如何様ニも村中取つゝき之筋相立候事ニ仕候仍而何卒當年仕込置候道具者左波不参候而ハ損毛ニ相成候間何卒明一春計御ゆるし被下置度旨願出候間親父も此義只一春之事ニ候故ゆるしニ致可申と之義ニ付然ハ只此度之書状者一家計之事ニ候間此上村役人中之書状印判爲遣候ハヽ右願之通 り致し可遣候段申含返し遣し候

享和元丙十二月八日出之書状ニ而左波義以來遠蝦差遣候義不仕趣村一統ニ相心得同人義扶助致し可申ト名主善八郎年寄清八郎同組合中印形之書状同月九日ニ相達し両度之書面 日記箱ニ入ル

十二月廿一日先日八日附書状印行ニ而嶋村役人参候節左波義何分宜敷此末取計ひ可被旨本日請状左波ニ遣申候


 これは福島神明社の神主笹井佐波(常盤井家八代のち治部)が、本来の職業である神主の仕事に専従せずに、冬より夏まで遠蝦夷地に出稼をし、神事を蔑(ないがし)ろにして鯡 (にしん) 取をしているのは甚だ不届で、よって神主資格を剥奪し、出入を差し止めるというものである。笹井家の記録(『福島沿革』、『戸門治兵衞 旧事記』)によれば、「主常盤井武雄村人数名ヲ連レ小樽マサリニテ漁場ヲ開ク、同年稲荷ヲ建立セリ」とあり、また「尾足内(おたるない)マサリ称宜場所稲荷大明主笹井日向正大願主別 家笹井庄右衞門始而造営」とある。マサリ場所とは小樽市朝里町に柾里(まさり)神社があるので、この時に創始されたものであるので、笹井別 家の庄右衞門が同地に鯡取の出稼をしていたのに、神主佐波が毎年同行し、その間福島の神事祭儀等が、代務者によって斉行されていたからである。

 この時の村名主は住吉屋達右衞門、年寄永井勘九郎、戸門治兵衞であるが、三人の名代として村方から小使多七、一家中より二人の計三人が城下に出、神明社の觸頭白鳥遠江守に申開きをした。福島一村百余戸の村で一人の神主を抱えることが出来ず、十分な生計維持も果 せず、止むを得ず出稼をしているという釈明に対し、遠江は神主資格を与えられた神職者がその地に居る以上、村民の責任としてこれを扶養するのが義務であり、福島にあって地元人と組んで短期間の鯡 取であれば許されるが、出稼等は以っての外であると論追し、翌年一年のみは出稼を許し、以後は一切認めないことで合意している。この件は觸頭職の一般 社家に対し、藩および吉田社家を背景とした強い姿勢の現われである。

 さらにその姿勢を示す史料として、同日記第七巻(筆者伊豫信武)の文政四年(一八二一)の項に、


























十月二日今日ハ司里美事ニ付一滞留ニ及候同人事段々是迄不行跡ニ付態々も當村江罷越程之儀候得は村役人も相願ニ付名主今五郎方江暮方村役不殘大野土佐親類不殘相寄り段々之内談数刻ニ及相尋見候所誰壱人かれヲ善与申者無之躰ニ候故先数々之非ハ置拙者可申渡支細有之候故里美呼ニ遣セ無程罷出候故皆烈(列)し候所ニ而



 申渡之事左之通り

其方先々月弁天御祭禮ニ付両頭事出勤可致之召札ニ而其方相詰候故在名前書記御役所江差上候向は御奉行所御承知有之事也然所其方十四日十六日迄之御神事中程ニして何方江参り出勤不爲哉終ニ頭役江届ニも不得見哉右之儀申聞キ有之哉無之者可申渡儀有之与申向候得共一言之支細無之躰ニ候故其方職を召放し還俗爲致當村を追出し候此方御城下へ着早々御奉行所江届書差出候也用事済候故此座相立可退出与申渡し候名前ハ産名之喜八と可致与言付候同人退出之跡ニ而座中ニ申付候者扨而つく不便之事ニ候此上拙者存寄之旨ヲ相談ニ及度候餘之儀不存かれか母之心躰殊ニ前土佐が無キ与而今様ニ難義之出來候物か此上者還俗之申渡ルハ相定り候得共今一應上向之届ヲ相扣こらしめ見度候其仕方ハ早速請取なし江て嶋村ノ治部方へ今一年相頼ミひん之還俗故炭焼山へなりいわし引込奉公同様之仕置ニ而致置候ハヽ其内面 之一心ニ付書讀候とも致す気ニ相成候ものにも有之間敷哉各方之願与申立上書ヲ差扣置様躰ニいたしこらしめ見度候与申候所一同難有候也何卒左様ニわれも致し見度与之事ニ付治部ヲ呼ニ遣参候故申付候所困り候躰ニハ候得共左茂致候而不見候時ハ是非御上江達し候より外無之候与申候得者同人も相請呉候ニ付村方一同も相頼ミ候也仍而是すく内へ帰ル事不成一家之子之助方江預ケ置治部同道ニ而嶋村連可参を申合翌日出立候治部へハ其元今一日滞留致し道具家財迄一々一家立合改帳相記し村役へ一冊此方へ一冊相認可参与申付三日ニ知内出立致し候甚た快晴也

同月廿二日知内村江里美帰村申付候ニ付村役へ書状遣其

文躰

一去己年九月里美儀不作法ニ付職取上嶋笹井治部方江預ケ置所本心ニも立帰り候由殊ニ村方初同人之母顫煩き願申事ニ付今一度本職ニ立帰候様左様御心得可被成候此末職勤まり兼候ハヽ村役方一統可被申出候
 
 己二月廿二日



社 頭





正神主





白鳥伊豫

 


里美へ申渡書付



其元儀是迄不行跡ニ付職取放置候得共村役方其元之母煩願候ニ付今一度本職ニ立帰らせ申候

此末心違有之候時は急度寺御奉行所江可申達段兼而申入置候

 文政五年己二月廿二日
 


社頭





白鳥伊豫





大野 里美 殿

筆致啓上候先以春和之砌各様彌以無事珍重存上候

去秋里美儀不行跡ニ付こらしめ之爲職取放嶋村主へ預ケ置候所此度村役方初同人母並治部茂今一度帰村爲致度旨与申候ニ付其旨村方並里美へも申達候間左様御心得可被成候夫ニ付同人妻之事者外ニ存寄り有之候得共先達而脇本返遣候婦人に今同人之時節相得外へ不嫁居候哉各方方相尋候方可然事ニ存候もし又其儀ニ無之候ハヽ先ニ當分何れ茂嫁ヲ迎候儀可被差扣右之段里美母へも御申談置可被下し候 以上

 午二月廿二日



白鳥伊豫





子之助 様





權太郎 様





平 吉 様



とあるように知内村雷公神社の大野里美が、目に餘る不行跡が多く、こらしめの為神主資格を剥奪し、還俗させて平人に下(おと)し、追放したものである。それについては里美を一年間笹井家預とし、本人悔悟の情が明かになった段階でその後の措置を決めることにしているが、その間の神社財産も笹井家が管掌している。翌文化五年二月里美の改悛と福島神明社での神道修業の成果 が認められ、さらに母の歎きも考慮に入れ、神主免許を返し、神職継続が許されているが、このように神と村民との橋渡し役としての神主の存在は、極めて厳密な戒律の下におかれていた。

 福島町には近世福島神明社の神主常盤井氏(のち笹井氏、さらに常磐井氏)と、宮歌八幡神社の神主藤枝氏、白符神明社の富山家の三家があり、それぞれ村の存立の核となって変遷してきた家々である。特に福島村の笹井家は、村創業の草分の一人として中世から村の成盛発展のため貢献した家であるといわれる。また、多くの古文書、日記等も保存している。しかし、福島神明社は文化四年(一八〇七)正月元日社殿より火を発し、御神体、社殿、社務所も焼き、同年再建されていることから、現在残されている古文書、史料等はそれ以後に筆記されたものが多い。従って一九〇年位 前の時代に書かれた記録に、三~四〇〇年前の記述があるのは、想像の域を出ない口碑伝説的なものの多いのは否めないが、他に史料のない現在では、これらの史料を用いなければ福島の歴史が成り立たない面 もある。

 この常磐井家の一家である利尻郡利尻町仙法志利尻山神社常磐井武祝氏が所蔵する同家系譜によれば、同家累代は次のとおりである。












































































元祖 常磐井治部大輔藤原武衡(たけひら)
 近江国一城主なり。城所郡郷不詳、天正元年(一五七三)八月十五日南部野辺地より松前に渡海し、島村に居住す(旧跡館古山と唱う)。同三年五月十三日蝦夷館大将クジラケン乱を起し、武衡これを討つ。領主季広公禄を以って召せども仕へず、国の爲とて、地頭体にて村長(むらおさ)を相勤め、慶長八年(一六〇三)九月二十七日六十歳にて去。
二代 常磐井大宮藤原武治
 
武衡長男なり。領主松前慶広公の命に依り、地頭の体にて村長相勤め、元和四年(一六一八)二月十一日四十三歳にて去。

長男 常磐井宮太郎藤原相衡(すけひら)

武治長男、元和四年十七歳の時松前長門(ながと)守利広(蠣崎季広四男)に奉仕し、利広陰謀露顕し本州に逃げ渡る際随行し、行跡不詳。その際相衡以前の系譜持ち去る。
三代 中興元祖祠官笹井今宮藤原道治(みちはる)
 武治二男、寛永十六年(一六三九)九月二十一日明を再建して職となる。同二十年九月十六日居宅を現在の地に移し大笹原を拓く。村民笹屋と言えしにより笹井と改姓。慶安二年(一六四九)明を再築し、松前明より小鏡を安置す。正徳四年(一七一四)上京、吉田殿より継目許状を受け、享保四年(一七一九)九月二十七日百三歳にて去。
四代 祠官笹井治部藤原武次
 道治の長男なり。享保三年(一七一八)七月二十六日吉田殿より継目許状相受る。席次は知内村職次席となる。 同十九年九月二十三日六十九歳去。
五代 祠官笹井治部藤原武種
 武次長男なり。延享四年(一七四七)七月十八日吉田殿より継目許状。安永三年(一七七四)六月二十三日六十九歳にて去。
六代 祠官笹井日向藤原武重
 武種長男なり。安永四年(一七七五)七月二十二日吉田殿より継目許状。寛政九年(一七九七)六月十一日七十四歳で去。
七代 司笹井筑江(ちくえ)藤原武雄
 
武重長男なり。継目任官せず職を勤む。安永五年(一七七六)十一月御城内大竃(かまど)祭御楽にて、領主道広公より笛の名手としての御賞言を賜わる。天明二年(一七八二)十二月十四日二十四歳にて去。

姉 志気-夫別家笹井庄右衞門婦

姉 應登-夫花田善五郎婦

姉 知加-夫川村治右衞門婦

女 -元祖三国安次郎婦

弟 笹井嘉吉、別家元祖
八代 主笹井治部藤原武彦
 
武雄長男なり。享和二年(一八〇二)十一月二十三日吉田殿より継目許状。文政五年(一八二二)主号免許。家名を輝し、中興先祖なり。天保三年(一八三二)九月二十三日五十七歳にて去。妻戸門紋兵衞 二女のぶ。

長女 普宮(ふみ) 原田清左衞門妻

二男 武幸 天明六年(一七八六)五歳にて宮歌八幡祠官藤枝武爲養子。

三男 尚義 原田治五右衞門名跡を継ぐ。
九代 主笹井治部藤原武昌
 笹井庄右衞門二男なり。文政五年(一八二二)四月二十六日吉田殿継目許状。天保十年(一八三九)七月七日四十三歳にて去。
十代 主笹井肥後藤原武義
 武昌の長男なり。天保十五年(一八四四)十月十一日吉田殿継目許状。嘉永三年(一八五〇)八月二十七日三十三歳にて去。
十一代 祠官笹井市之進藤原武良
 武義二男なり。武良は継目任官せず祠官として奉仕し、安政三年(一八五六)十歳で去。しばらく家名中断。
十二代 祠掌兼訓導笹井参河(みかわ)藤原武麗(たけあきら)
 
天保十年(一八三九)生れ、原田治五右衞門二男なり。安政四年(一八五七)十二月二十三日武良妹肥茂(ひも)に入夫養子、十六歳にて家督。慶應三年(一八六七)継目許可。 明治十七年二月四日四十一歳で去。

武麗末流

長男武胤-利尻山-武知-武秀-武祝

二男秀太-福島大宮-武季-武宮

三男栄太-熊野(絶家)


 白符村に居住し、同地の鎮守社神明社(白符大神宮)の社家として永年奉仕してきた富山家の閲歴については、同家が昭和九年六月の火災で、伝承してきた古文書類を一切焼失していてよく分からない。幸い白符大神宮には七十七枚の神社棟札が残されており、これによって見ると社家富山家の歴代は次のとおりである。








富山 守衞

元文五~天明二年(一七四〇~八二)

富山 登

寛政十年(一七九八)~

富山 左近

文化十三年(一八一六)~

富山 丹波正勝見

文政元年(一八一八)~

富山 丹波正豊次郎

天保十三年(一八四二)

富山兵部正義辰

嘉永五年(一八五二)

富山 出雲正義信(のち宣辰)

安政五年(一八五八)~

息富山刑部正宜信は、神主として奉仕し、社司を継承しないうちに箱館戦争となり、松前藩神職をもって組織する郷兵に徴用されて参戦。明治二年五月十一日奇兵隊士として奮戦中桔梗野で戦死し、家格は士分に引き揚げとなった。

富山 宣次

明治十二年まで神職


 宮歌村八幡神社の社家藤枝家についての来歴を詳記したものはない。この姓から見て、松前羽黒神社(全生室(あぜむろ)神社)の社家藤枝家の同族ではないかと考えられる。松前羽黒社の祖は修験者の出身で、松前愛宕神社、江差姥神神社の藤枝家も同族である。宮歌八幡神社の棟札八十二枚から抽出すると、その代々は次のとおりである。








別当 泉蔵坊

明暦元年(一六五五)~

別当 大学院

寛文五年(一六六五)~

別当 秋本太夫

元禄十二年(一六九九)~

別当 長

元禄十五年(一七〇二)~

主 藤枝 宇明

享保十一年(一七二六)~

主 藤枝右門武重(武次)

享保二十年(一七三五)~

主 藤枝 式部

宝暦九年(一七五九)~

主 藤枝 滝之進

明和六年(一七六九)~

主 藤枝 駿河(するが)(武爲)

安永九年(一七八〇)~

主 藤枝 梅之進(のち蔵人正武保)

文政二年(一八一九)~

主 藤枝 兵衞武安(武保)

天保十五年(一八四四)~

主 藤枝 武伴

安政四年(一八五七)~


 これら福島町在地の神主たちは松前藩の神道政策に従って、神道觸頭の両白鳥家か准觸頭の松前馬形神社の社家佐々木家かのいずれかと子弟関係を結んでいた。その関係は別 掲のとおりであるが、笹井家(常磐井家)は松前神明社白鳥家、白符富山家は松前馬形社の佐々木家、宮歌藤枝家は松前八幡社の白鳥家と、それぞれ子弟関係を結んでいた。この関係はそれぞれの社家の子弟が、神職修業する場合、先ず親神社で凡そ二年間修業し、神職の基本を学ぶ。この期間が過ぎ十分な経験を得たと認められる場合、觸頭から町奉行所に神主として認めるよう願い出、認められた場合、吉日を選んで觸頭立会のもとで藩主に御目見得をし、晴れて神主に任命される。

 神主には笹井家の治部正(じぶしょう)、藤枝家の駿河正(するがのしょう)、富山家の刑部正(ぎょうぶのしょう)のように官位 に似た呼称が多い。これは京都の神道総取締の吉田神社吉田卜部家から拝領する神職の官位 を表すものである。藩から神主になることを認められても、この官位はもらえない。松前藩は觸頭を通 じて吉田家と深く結び付いていて、神主となったものは必ず、吉田家に参向して神主裁許状と継目相続許状さらには神主官位 の敍位敍勲を受けることになっていた。常磐井古文書のなかにしばしば神主上洛の記事があるが、これは、このようなことからの上京であって社家を嗣ぐ者の宿命でもあった。

 この上洛(京都へのぼること)のためには路銀や裁許状、敍任を受けるための、資金の捻出と土産物の用意が必要で、往復期間は早くて三か月、遅い場合は六か月を要し、その費用は凡そ三十両位 を要した。その半額程度は村方の負担で、村名主、年寄等が各家を廻って寄附を集めて用意し、あとの半額はその社家が負担した。資金ができると觸頭に願い出て、その添書をもって出国の申請をする。出国の許可は出切手と荷物逓符を頂戴し、また、觸頭からは吉田社家家老中への添書を持って出発する。京都では旅籠(はたご)に泊って吉田神社に通 い、神道学を学んだ上、神主裁許状、継目相続許状のほか、神主官位の敍位敍官を受けて帰国する。

 帰国すると両觸頭に報告の上、その添書を付して寺社町奉行所に届け出、奉行は藩庁にその旨を報告する。藩庁は日を改めて藩主への御目見得をする。その際は藩主在国の場合は藩主、不在の場合は世子が御台子の間で謁見し、一件書類を觸頭立会のもとに披露し、ここで晴れて一人前の神主となった。このような厳格な規程によって誕生する神主であるので、領内においては士分に次ぐ別 格者として、庶民の上に位置付けられ、村にあっては相談役的存在であった。

 松前藩と各神社の関係は、藩よりは年代によって異なるが二~三俵の扶持米を支給して、連携を強めていたほか、藩主から多くの神社に懸額等が納められていた。また、神社の再築等の場合は若干の助成もしていた。各神社の千木や梁等に松前藩主の家紋「丸に割菱」が付されているが、これも藩に願い出て許可を受けて彫り込んだものである。このほか祭礼に用いる家紋入りの幕や高張提灯(たかはりちょうちん)も一々藩に願い出、寺社町奉行所の貸し出しを受けて用いたもので、藩は神の信仰に篤い在地の庶民の心を利用しながら、藩の威厳の強化に利用していたものである。



【近世仏教の展開】 近世に入っての福島町内各村の仏教は、福島村においては中世以降建立した法界寺、吉岡村の光念庵は別 として、各村は観音堂、地蔵堂といった神仏の混淆(こんこう)した(神か仏か分からない)形の信仰が続けられていた。『福山秘府・巻之十二』(諸社年譜并境内諸堂社部)によると、福島町では、















































八幡

造立年號不相知。
礼髭村

觀音堂

造立年號不相知。體圓空作。

同村

八幡宮

造立年號不相知。古来ヨリ此所ニ有之由。
吉岡村

觀音堂

造立年號不相知。神體圓空作。
同村

惠美須宮

造立年號不相知。
同村

八幡宮

明暦元年造立。
宮ノ歌村

大日堂

造立年號不相知。古来ヨリ此所ニ有之由。
白府村



造立 年號不相知。
同村



慶安二年造立。
島村

觀音堂

造立年號不相知。古来ヨリ此所ニ有之由。
同村

十羅女(とらめ)堂

同上。
同村

羽黒社

延宝七年造立。
同村

毘沙門(びしゃもん)堂

延宝五年造立。
同村

稲荷社

天和二年造立。
同村


とあって、礼髭村、吉岡村には観音堂があり、そこには圓空作の仏像が奉斉されていたが、この礼髭村の分は現在吉野教会の尊像で、さらに吉岡村の分は、明治にいたり排仏毀 釈の命によって海に投げ棄てられていたものを、吉岡村の漁民が拾い上げ、のちに函館市称名寺に寄贈したといわれるが、両像とも来迎観世音菩薩座像で、神道で奉斉すれば神像、仏教では仏像とするもので、神仏分明し難い像である。この像を信仰する在地の人達は正に神仏混淆の信仰であったと考えられる。

 白符村の鎮守社は白符神明社であるが、創立当初は大日堂と呼ばれる堂舎であったと思われる。この堂は大日如来を祀っていたからその呼称が生じたと考えられ、この像は真言宗の影響を持った修験者によって草創されたものではないかと思われる。

 福島村では観音堂とあるのは月崎神社の前身で、この社も当初は観音信仰の堂社であったと思われ、十羅女(とらめ)堂もこの観音堂の併堂で、福島川の川裾を守る意味で、女性の人達が建立したと思われ、それが鏡山に移転し、神明社の摂社として川濯(かわそ・川裾)神社となったものである。

 近世初頭の福島村には浄土宗法界寺と、吉岡村の浄土宗光念庵の二か寺よりなかった。従って他の村は仏教信者の集会施設といえば、村の観音堂か地蔵堂で、現在残る吉野教会等はその遺形と見ることが出来る。しかし、松前藩は幕府の示したキリシタン対策によって、毎月寺参りし、施行の際は常に数珠を持参することが義務付けられ、もし持参しない者には宿をしてはならないと定められていた。松前藩が宗門名簿を幕府に上呈したのは慶安二年(一六四九)であるから、この時点以降では各村は宗門御改書上帳が備え付けられていて、世帯主をはじめ世帯員は総て仏教寺院の寺檀となることが定められていた。また、家族に異動が生じた場合は、丹那(だんな)寺から離檀請状を貰って書上帳の補訂をしてもらうことになっていた。従って仏教寺院と檀徒との結び付きは非常に強固なものであった。

 また、キリシタン類族と認められ、名簿に登載された者は強制的に仏教檀徒となることが義務付けられたが、仙台藩は胆沢郡福原領主の後藤寿庵の弟子であったキリシタンを、棄教させた後、幕府の命によって強制的に時宗檀徒に組み入れている。松前藩はキリシタン類族が死亡した場合、『元禄五年松前主水広時日記』にあるように、江差の類族が死亡したとき、「江差村古切支丹類族佐蔵娘本人同然のせん、今月九日致病死候申来、江差村肝煎差添死骸見届、塩詰に致正行寺之埋」とあって、遺骸を樽に入れ塩詰にし、肝煎(村役)差添の上松前に搬び、藩の検死を受けて浄土宗正行寺墓地に葬ったとあるので、松前藩の類族は浄土宗檀家に組み入れていたと考えられる。

 法界寺墓地は近世の時代、村の共同墓地であったと考えられ、各宗派の墓がある。この中で笏谷石(産地福井県)の緑色凝灰岩で一きわ立派な五輪塔型式の墓がある。一基1は浄秋禅定門という曹洞宗の戒名が入っており、寛文元年丑己□月廿七日とあって、三三〇年以上を経た高さ一・六一メ-トルという堂々たる墓である。さらにもう一基2は清念禅定門の戒名はあるが、年号は磨滅して不明であり、月日は六月廿五日と彫られ、高さ一・八一メ-トルのものである。1の墓は中村由蔵家、2の墓は福鳴海吉一家のものであるが、このような古い時代に福島村にこのような立派な墓が存在したことは、仏教信仰の篤さと定着者の安定さを示すものとして、貴重な文化財である。

 また、この時代の仏教宗派における福島町の教勢を詳細に知る史料はないが、福島村の法界寺、吉岡村の海福寺(広念庵)は共に浄土宗であるので両村共に浄土宗の檀家が多かったと思われるが、他宗の檀家もあったと思われる。

 宮歌八幡神社が保存している宮歌村文書のなかに天保十三年(一八四二)と安政二年(一八五五)と年代の異なった『宗門御改書』がある。この書上げは北海道では熊石町に残る相沼内宗門御改書と共に一村の戸口、宗門動態等を知る上で誠に貴重なものである。しかし、宮歌村の安政二年分は断片的なものであるので、天保十三年分を見ると上表のとおりである。宮歌村の戸数は枝村大茂内村(現乙部町)の四戸を含め八七戸であるが、そのうち五三戸、総数の六一パ-セントが福島村法界寺の檀家、三四パ-セントが松前城下の寺院に所属している。また宗派別 で見ると浄土宗が七八パ-セント、浄土真宗(東本願寺派)が一〇パ-セントで曹洞宗、日蓮宗は極めて少ない檀家である。浄土真宗は、享保六年(一七二一)に松前専念寺吉岡掛所(かけしょ)が建立され、その檀家となった人達と考えられるが、宮歌村が吉岡村の隣村にありながら、吉岡村海福寺の檀家とならず、遠い福島村法界寺の檀家となっていたもので、法界寺が海福寺より創立が古いことによるものではないかと思われる。なお表中の長徳寺は乙部村、清順庵は大茂内村(現乙部町字栄浜)の寺院で、枝村とかかわり合いを持った寺である。










宮歌宗門御改書宗門内訳(天保13年分)




























仏教宗流寺号檀家数
浄土宗法界寺五三一四二一〇九二五一
浄土真宗専念寺二〇一四三四
曹洞宗龍雲寺一一
浄土宗正行寺一四三五三一六六
日蓮宗法華寺一〇
曹洞宗長徳寺一二
浄土宗清原庵
合計 八七二一四一七二三八六