第一節 近世宗教の展開 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶長九年(一六〇四)松前氏(蠣崎氏)第五世伊豆守慶広が徳川家康から、蝦夷地采領の黒印制書を拝領して松前藩が立藩された。この藩で宗教政策を管掌したのは寺社町奉行所である。この奉行所の設置は慶長年間の記録にも見え、寛永年間には制度化され、民生・司法・蝦夷のことを主要職務とし、町奉行所としていたが、その後、神道・仏教を加えて寺社町奉行所および奉行と名称が変更された。 この寺社町奉行の名称変更について松前八幡社白鳥家の『八幡録』においては、
とあって、元禄五年(一六九二)松前八幡社と松前神明社の両神主が、領内社人の支配役を命ぜられ、両人の藩での序列は八幡社を上席とすることが定められているが、これが直接町奉行の支配下に入ったか否かは明かではない。さらに前掲史料は次に、
とあって、正徳二年(一七一二)に寺社奉行の高橋淺右衞門を通 じて社頭職に任ぜられたが、これは寺社奉行という単独のものではなく、町奉行の兼摂の役で、両者を合して寺社町奉行の名称が用いられ、このころから正式に寺社町奉行所の機能が発揮されている。 松前藩の藩法の集大成ともいうべき『松前福山諸掟(おきて)』の寺社町奉行の項においては、
とあるように、寛永十六年(一六三九)のキリシタン宗門禁制による住民への対策として、神道または仏教の国教を信仰し、月一度は必ず、社参または仏参して信仰の証しを立てることを義務付けている。従って中世末以降に福島地方に展開されてきた、神仏習合(神とも仏とも分別 できない)の信仰が、次第に神道、仏教に分離されてくるが、それでもなお丸山薬師信仰のように、慶應三年(一八六七)の幕末にいたっても、山岳信仰の遺形として、丸山神社の祭祀は猿田彦大神を祭神として神主笹井家が担当し、同じ社に祀る薬師如来の信仰は釜谷の了然という山伏が別 当となるなどの変則的な在地信仰も続けられている。 【松前藩の神道政策】 松前藩の神道政策は前述のように寺社町奉行より発せられる神道政策を、和人地内の管下神主に浸透させ、これを守らせることを主眼として正徳二年正式に社頭職両人(八幡、神明両白鳥家)が任命されている。この社頭職は、社家頭(しゃけとう)、注連頭(しめがしら)また一書にはシカリ役としており、各社家の上位 にあって藩の意を帯して、神道体制の強化に努めることであった。また、この社頭職は京都の神道卜家(うらべ)の司家吉田家と深く結び付いていて、大神主あるいは正神主と普通 神官より高い位の待遇を受けており、神官跡目相続者の教育、吉田社家からの継目相続の介入、神主資格と叙位 任官等に深くかかわっていた。蝦夷地は京都から見れば極めて遠隔の地ではあるが、しかし、この規律は厳格に守られていた。奥羽地方においては神主資格保持者は少なく、村落では堂守別 当的な存在が多く、かつまた神仏習合の修験者が多かったことから見ても、蝦夷地神道は神官の統制を含めて厳密に行われていた。常磐井家記録のなかでも、相続者がしばしば上京しているが、これは、吉田卜部(うらべ)家からの神主資格の取得と、敍位 敍官のための上洛であった。社頭職である松前八幡社白鳥家、松前神明社白鳥家の両家は、その祖は陸奥国和賀郷(岩手県和賀地方)に発し、上ノ国八幡社に奉仕し白鳥称宜(ねぎ)と称したが、その子なく修験者大蔵院が二代を受け、三代海蔵院が神道神主となり圓太夫となって大館(松前)館神八幡に奉仕した。寛永二年(一六二五)福山館の後方(現さくら見本園位 置)に松前藩主松前氏の氏神として八幡宮(社)が創建され、圓太夫がその祠官となった。四代森太夫には二人の子があり、兄若宮が別 家して神明社(伊勢堂)祠官となって若宮太夫を称し、弟隼人佐(はやとのすけ)は八幡宮社司を継ぎ、両家は、両白鳥家として神道觸頭の地位 を保ちつつ、明治まで営々と栄えた家柄である。また、この両家を補佐する准觸頭に馬形(まがと)神社社司の佐々木家がある。これは八幡社白鳥家に嗣子がいない場合、佐々木家から養子を迎えることの慣例から、このような待遇が与えられたものである。 社頭職がどのような活動をしたかを示す史料に『白鳥氏日記』がある。この第一巻(天明~享和三=一七八一~一八〇三=筆者白鳥家神明社四代遠江守(とおとうみのかみ)政武)によれば、
これは福島神明社の神主笹井佐波(常盤井家八代のち治部)が、本来の職業である神主の仕事に専従せずに、冬より夏まで遠蝦夷地に出稼をし、神事を蔑(ないがし)ろにして鯡 (にしん) 取をしているのは甚だ不届で、よって神主資格を剥奪し、出入を差し止めるというものである。笹井家の記録(『福島沿革』、『戸門治兵衞 旧事記』)によれば、「主常盤井武雄村人数名ヲ連レ小樽マサリニテ漁場ヲ開ク、同年稲荷ヲ建立セリ」とあり、また「尾足内(おたるない)マサリ称宜場所稲荷大明主笹井日向正大願主別 家笹井庄右衞門始而造営」とある。マサリ場所とは小樽市朝里町に柾里(まさり)神社があるので、この時に創始されたものであるので、笹井別 家の庄右衞門が同地に鯡取の出稼をしていたのに、神主佐波が毎年同行し、その間福島の神事祭儀等が、代務者によって斉行されていたからである。 この時の村名主は住吉屋達右衞門、年寄永井勘九郎、戸門治兵衞であるが、三人の名代として村方から小使多七、一家中より二人の計三人が城下に出、神明社の觸頭白鳥遠江守に申開きをした。福島一村百余戸の村で一人の神主を抱えることが出来ず、十分な生計維持も果 せず、止むを得ず出稼をしているという釈明に対し、遠江は神主資格を与えられた神職者がその地に居る以上、村民の責任としてこれを扶養するのが義務であり、福島にあって地元人と組んで短期間の鯡 取であれば許されるが、出稼等は以っての外であると論追し、翌年一年のみは出稼を許し、以後は一切認めないことで合意している。この件は觸頭職の一般 社家に対し、藩および吉田社家を背景とした強い姿勢の現われである。 さらにその姿勢を示す史料として、同日記第七巻(筆者伊豫信武)の文政四年(一八二一)の項に、
とあるように知内村雷公神社の大野里美が、目に餘る不行跡が多く、こらしめの為神主資格を剥奪し、還俗させて平人に下(おと)し、追放したものである。それについては里美を一年間笹井家預とし、本人悔悟の情が明かになった段階でその後の措置を決めることにしているが、その間の神社財産も笹井家が管掌している。翌文化五年二月里美の改悛と福島神明社での神道修業の成果 が認められ、さらに母の歎きも考慮に入れ、神主免許を返し、神職継続が許されているが、このように神と村民との橋渡し役としての神主の存在は、極めて厳密な戒律の下におかれていた。 福島町には近世福島神明社の神主常盤井氏(のち笹井氏、さらに常磐井氏)と、宮歌八幡神社の神主藤枝氏、白符神明社の富山家の三家があり、それぞれ村の存立の核となって変遷してきた家々である。特に福島村の笹井家は、村創業の草分の一人として中世から村の成盛発展のため貢献した家であるといわれる。また、多くの古文書、日記等も保存している。しかし、福島神明社は文化四年(一八〇七)正月元日社殿より火を発し、御神体、社殿、社務所も焼き、同年再建されていることから、現在残されている古文書、史料等はそれ以後に筆記されたものが多い。従って一九〇年位 前の時代に書かれた記録に、三~四〇〇年前の記述があるのは、想像の域を出ない口碑伝説的なものの多いのは否めないが、他に史料のない現在では、これらの史料を用いなければ福島の歴史が成り立たない面 もある。 この常磐井家の一家である利尻郡利尻町仙法志利尻山神社常磐井武祝氏が所蔵する同家系譜によれば、同家累代は次のとおりである。
白符村に居住し、同地の鎮守社神明社(白符大神宮)の社家として永年奉仕してきた富山家の閲歴については、同家が昭和九年六月の火災で、伝承してきた古文書類を一切焼失していてよく分からない。幸い白符大神宮には七十七枚の神社棟札が残されており、これによって見ると社家富山家の歴代は次のとおりである。
宮歌村八幡神社の社家藤枝家についての来歴を詳記したものはない。この姓から見て、松前羽黒神社(全生室(あぜむろ)神社)の社家藤枝家の同族ではないかと考えられる。松前羽黒社の祖は修験者の出身で、松前愛宕神社、江差姥神神社の藤枝家も同族である。宮歌八幡神社の棟札八十二枚から抽出すると、その代々は次のとおりである。
これら福島町在地の神主たちは松前藩の神道政策に従って、神道觸頭の両白鳥家か准觸頭の松前馬形神社の社家佐々木家かのいずれかと子弟関係を結んでいた。その関係は別 掲のとおりであるが、笹井家(常磐井家)は松前神明社白鳥家、白符富山家は松前馬形社の佐々木家、宮歌藤枝家は松前八幡社の白鳥家と、それぞれ子弟関係を結んでいた。この関係はそれぞれの社家の子弟が、神職修業する場合、先ず親神社で凡そ二年間修業し、神職の基本を学ぶ。この期間が過ぎ十分な経験を得たと認められる場合、觸頭から町奉行所に神主として認めるよう願い出、認められた場合、吉日を選んで觸頭立会のもとで藩主に御目見得をし、晴れて神主に任命される。 神主には笹井家の治部正(じぶしょう)、藤枝家の駿河正(するがのしょう)、富山家の刑部正(ぎょうぶのしょう)のように官位 に似た呼称が多い。これは京都の神道総取締の吉田神社吉田卜部家から拝領する神職の官位 を表すものである。藩から神主になることを認められても、この官位はもらえない。松前藩は觸頭を通 じて吉田家と深く結び付いていて、神主となったものは必ず、吉田家に参向して神主裁許状と継目相続許状さらには神主官位 の敍位敍勲を受けることになっていた。常磐井古文書のなかにしばしば神主上洛の記事があるが、これは、このようなことからの上京であって社家を嗣ぐ者の宿命でもあった。 この上洛(京都へのぼること)のためには路銀や裁許状、敍任を受けるための、資金の捻出と土産物の用意が必要で、往復期間は早くて三か月、遅い場合は六か月を要し、その費用は凡そ三十両位 を要した。その半額程度は村方の負担で、村名主、年寄等が各家を廻って寄附を集めて用意し、あとの半額はその社家が負担した。資金ができると觸頭に願い出て、その添書をもって出国の申請をする。出国の許可は出切手と荷物逓符を頂戴し、また、觸頭からは吉田社家家老中への添書を持って出発する。京都では旅籠(はたご)に泊って吉田神社に通 い、神道学を学んだ上、神主裁許状、継目相続許状のほか、神主官位の敍位敍官を受けて帰国する。 帰国すると両觸頭に報告の上、その添書を付して寺社町奉行所に届け出、奉行は藩庁にその旨を報告する。藩庁は日を改めて藩主への御目見得をする。その際は藩主在国の場合は藩主、不在の場合は世子が御台子の間で謁見し、一件書類を觸頭立会のもとに披露し、ここで晴れて一人前の神主となった。このような厳格な規程によって誕生する神主であるので、領内においては士分に次ぐ別 格者として、庶民の上に位置付けられ、村にあっては相談役的存在であった。 松前藩と各神社の関係は、藩よりは年代によって異なるが二~三俵の扶持米を支給して、連携を強めていたほか、藩主から多くの神社に懸額等が納められていた。また、神社の再築等の場合は若干の助成もしていた。各神社の千木や梁等に松前藩主の家紋「丸に割菱」が付されているが、これも藩に願い出て許可を受けて彫り込んだものである。このほか祭礼に用いる家紋入りの幕や高張提灯(たかはりちょうちん)も一々藩に願い出、寺社町奉行所の貸し出しを受けて用いたもので、藩は神の信仰に篤い在地の庶民の心を利用しながら、藩の威厳の強化に利用していたものである。 【近世仏教の展開】 近世に入っての福島町内各村の仏教は、福島村においては中世以降建立した法界寺、吉岡村の光念庵は別 として、各村は観音堂、地蔵堂といった神仏の混淆(こんこう)した(神か仏か分からない)形の信仰が続けられていた。『福山秘府・巻之十二』(諸社年譜并境内諸堂社部)によると、福島町では、
とあって、礼髭村、吉岡村には観音堂があり、そこには圓空作の仏像が奉斉されていたが、この礼髭村の分は現在吉野教会の尊像で、さらに吉岡村の分は、明治にいたり排仏毀 釈の命によって海に投げ棄てられていたものを、吉岡村の漁民が拾い上げ、のちに函館市称名寺に寄贈したといわれるが、両像とも来迎観世音菩薩座像で、神道で奉斉すれば神像、仏教では仏像とするもので、神仏分明し難い像である。この像を信仰する在地の人達は正に神仏混淆の信仰であったと考えられる。 白符村の鎮守社は白符神明社であるが、創立当初は大日堂と呼ばれる堂舎であったと思われる。この堂は大日如来を祀っていたからその呼称が生じたと考えられ、この像は真言宗の影響を持った修験者によって草創されたものではないかと思われる。 福島村では観音堂とあるのは月崎神社の前身で、この社も当初は観音信仰の堂社であったと思われ、十羅女(とらめ)堂もこの観音堂の併堂で、福島川の川裾を守る意味で、女性の人達が建立したと思われ、それが鏡山に移転し、神明社の摂社として川濯(かわそ・川裾)神社となったものである。 近世初頭の福島村には浄土宗法界寺と、吉岡村の浄土宗光念庵の二か寺よりなかった。従って他の村は仏教信者の集会施設といえば、村の観音堂か地蔵堂で、現在残る吉野教会等はその遺形と見ることが出来る。しかし、松前藩は幕府の示したキリシタン対策によって、毎月寺参りし、施行の際は常に数珠を持参することが義務付けられ、もし持参しない者には宿をしてはならないと定められていた。松前藩が宗門名簿を幕府に上呈したのは慶安二年(一六四九)であるから、この時点以降では各村は宗門御改書上帳が備え付けられていて、世帯主をはじめ世帯員は総て仏教寺院の寺檀となることが定められていた。また、家族に異動が生じた場合は、丹那(だんな)寺から離檀請状を貰って書上帳の補訂をしてもらうことになっていた。従って仏教寺院と檀徒との結び付きは非常に強固なものであった。 また、キリシタン類族と認められ、名簿に登載された者は強制的に仏教檀徒となることが義務付けられたが、仙台藩は胆沢郡福原領主の後藤寿庵の弟子であったキリシタンを、棄教させた後、幕府の命によって強制的に時宗檀徒に組み入れている。松前藩はキリシタン類族が死亡した場合、『元禄五年松前主水広時日記』にあるように、江差の類族が死亡したとき、「江差村古切支丹類族佐蔵娘本人同然のせん、今月九日致病死候申来、江差村肝煎差添死骸見届、塩詰に致正行寺之埋」とあって、遺骸を樽に入れ塩詰にし、肝煎(村役)差添の上松前に搬び、藩の検死を受けて浄土宗正行寺墓地に葬ったとあるので、松前藩の類族は浄土宗檀家に組み入れていたと考えられる。 法界寺墓地は近世の時代、村の共同墓地であったと考えられ、各宗派の墓がある。この中で笏谷石(産地福井県)の緑色凝灰岩で一きわ立派な五輪塔型式の墓がある。一基1は浄秋禅定門という曹洞宗の戒名が入っており、寛文元年丑己□月廿七日とあって、三三〇年以上を経た高さ一・六一メ-トルという堂々たる墓である。さらにもう一基2は清念禅定門の戒名はあるが、年号は磨滅して不明であり、月日は六月廿五日と彫られ、高さ一・八一メ-トルのものである。1の墓は中村由蔵家、2の墓は福鳴海吉一家のものであるが、このような古い時代に福島村にこのような立派な墓が存在したことは、仏教信仰の篤さと定着者の安定さを示すものとして、貴重な文化財である。 また、この時代の仏教宗派における福島町の教勢を詳細に知る史料はないが、福島村の法界寺、吉岡村の海福寺(広念庵)は共に浄土宗であるので両村共に浄土宗の檀家が多かったと思われるが、他宗の檀家もあったと思われる。 宮歌八幡神社が保存している宮歌村文書のなかに天保十三年(一八四二)と安政二年(一八五五)と年代の異なった『宗門御改書』がある。この書上げは北海道では熊石町に残る相沼内宗門御改書と共に一村の戸口、宗門動態等を知る上で誠に貴重なものである。しかし、宮歌村の安政二年分は断片的なものであるので、天保十三年分を見ると上表のとおりである。宮歌村の戸数は枝村大茂内村(現乙部町)の四戸を含め八七戸であるが、そのうち五三戸、総数の六一パ-セントが福島村法界寺の檀家、三四パ-セントが松前城下の寺院に所属している。また宗派別 で見ると浄土宗が七八パ-セント、浄土真宗(東本願寺派)が一〇パ-セントで曹洞宗、日蓮宗は極めて少ない檀家である。浄土真宗は、享保六年(一七二一)に松前専念寺吉岡掛所(かけしょ)が建立され、その檀家となった人達と考えられるが、宮歌村が吉岡村の隣村にありながら、吉岡村海福寺の檀家とならず、遠い福島村法界寺の檀家となっていたもので、法界寺が海福寺より創立が古いことによるものではないかと思われる。なお表中の長徳寺は乙部村、清順庵は大茂内村(現乙部町字栄浜)の寺院で、枝村とかかわり合いを持った寺である。
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