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第六節 陸上交通・駅逓・宿場

 松前から箱館にいたる街道は二十七里あり、この道はあまり手をかけない海岸の平地や、自然道あるいは杣道を利用したものであったが、それでも蝦夷地の幹線道路であった。この道のうち福島町内の六里半の道を見ると、その行路は安政二年(一八五五)津軽弘前の人平尾魯遷筆『箱館(松前)紀行』、越後長岡藩士森一馬筆『罕有(かんゆう)日記』、松浦武四郎筆『渡島日記』等に詳しいが(史料編、來遊客日記等収載)、これらを綜合して見ると次のようなものである。

 松前を出て大沢、荒谷村を過ぎると炭焼沢村(現松前町字白神)に入る。ここから街道は白神岬を迂回する白神山道、吉岡山道、あるいは茶屋峠と称する二里の道程(みちのり)の山道があり、福島から知内に至る間の茶屋峠と共に、街道の二大難関であった。この白神山道は登りが一里、下りが一里であるが、炭焼沢からだらだらと登り、標高三六二メ-トルの白神岳の山麓を巡ると、上部の台地には棚に囲まれた石地蔵の立像が立っていた(現在吉野教会の石仏がそれらしい)。その向い側には巡見使等が来島した際には仮小屋を建て湯茶の接待をしたが、平尾魯遷のスケッチでは、ここに立派な建物があり、休所となっていたと思われる。松浦・吉野(当時は楚湖(そっこ)・礼髭といった)の下りは急峻で、駄 馬の通行がやっとの状況であった。この下り道は幅二間、深さ五尺~三尺で、今もその街道の規模、構造がよく分かる。下りには、福島の村々の配置や矢越岬、本州の山並が指呼に眺望できる。また右の断崖からは岬(明神岬)の上に楚湖明神(現白神神社)を見ながら、かつて砂金掘で多くの人が入り込んだ楚湖川へ出て、さらに礼髭村に出た。海岸を白神岬を越えて礼髭村に至るには、岩礁 地帯を跳(は)ねながら歩行し、岬から東部では数か所腰まで海水に漬(つか)っての歩行であった。とくに瀧の澗(界川)から明神岬までの間は岩礁 の連続で、ミネコの岬(みないこの岬)という名があるように、男女共腰までまくって海中を歩くので、お互いに見ないことにしようということで、この名が生れていた。したがってこの海岸道路は、海が荒れた場合は歩行できず、危険も多いので殆ど利用されなかった。

 礼髭から吉岡までは海岸の砂地の道を利用し、両村の境界は界川あるいは市ケ沢。吉岡村は沖ノ口役所のあったこともあって、船宿、旅籠(はたご)もあり、水主らに春をひさぐ鴈(が)の字と呼ばれる女性もいたという。貝取澗と宮歌の澗には多くの船が仮泊しており、黒瀧と鍋島の村界、宮歌村はここから澗内の岬と呼ばれた根祭岬、さらに白符村は福島堺の馬越まで、ここ慕舞の岬に腰掛岩があって、ここには村界の大門が立っていて、萬一の場合に閉鎖するようになっていた。さらに日方泊を経て福島寺町前と上町に入り、松前からは五里の宿場に泊まるのが例となっていた。福島では名主住吉屋辰右衞 門家や戸門治兵衞家も旅籠(はたご)を漁業と兼ねて営んでいたが、福島も吉岡と同じく歓楽街があり、飲み屋、そば屋等が多く、その中に「地烟草(じたばこ)」と呼ばれる女性が春をひさいでいた。

福島から知内までの街道は七里で、しかも、四十八瀬、茶屋峠を越えるため大変な難路であったので、明ケ六ツ時(午前六時)には吉田橋前の大門を出立して知内に向った。途中には三本木というたもの三本の大木があり旅の一つの目標になっていた。ここから山崎にかけては若干の田畑が開けていたが、これらの人達は多く杣夫、炭焼で生計を立てていた。ここから少し行った山裾から左に分かれるが、ここには道標石柱が立っていて、左箱館、右山道と書かれていた。この左へ入る道は現在の兵舞道で、当時はシャウマイ道と呼ばれ、福島川本流の多くの瀬を渡るため四十八瀬と呼ばれる。この行き詰まった処から茶屋峠を登るが、その行程一里は正に絶壁を登るようで、松浦武四郎は、「九折恰(あたか)も蜀嶮の棧も此の如しと思われる処しばしば」と中国蜀の道の悪さを表現した李白の詩を引用する程である。







茶屋峠の図




 この峠を登りつめた処に休息所としての茶屋があり、代々与助という人が、ここでお茶を出し、駄 菓子を売っていたことから、峠の名茶屋峠の名が残った。この経路は旧松前線の茶屋トンネルの直上部分に当る。ここから東部は、なだらかな下りで知内川本流の一の渡り(市ノ渡りともいう)に着く。この川には丸木船が備え付けられていたが、そだ橋(木の枝等の粗末な橋)があり、ここを渡り急坂を登った綱這野(つなはいの)(綱張野または綱配野=字千軒)に松前藩が建設し、佐藤甚左衞 門が管理する御救小屋があった。これは知内川一の渡りが増水で渡れない場合、休泊ができるように旅人の利便を考えて造られたものである。

 ここ綱這野を過ぎ、知内川支流綱配川へ下る坂を御番坂あるいは鍋毀坂(なべこわしざか)と言った。この川を渉り、湯の尻までの間を湯の野といい、イタドリ、エゾエウ(ニオ)が丈余に伸びていて、道は草に覆われていて先が見えないので、熊と正面 衝突して襲われ死亡する旅人が多かった。そして供養のため鉄輪のついた卒塔婆の菩提車が、あちこちに建っていたと言われる。知内村との村堺は湯の野の坂を下った知内川支流の湯の沢川近くの栗の木椹(たい)坂(椹はさわらの木)であったが、ここから東は知内村領であった。



【駅 逓】 松前領内の主要街道である松前-箱館間、松前-江差間には駅逓が設けられていて、人馬継立が行われていた。とくに吉岡は沖ノ口御番所のあることによって船宿、福島村は宿場町としてこの中継基地であった。この継立は村の義務として公用物である御用状および御用物は無料で、御用継を村送りしなければならなかった。これらのもので急ぐものは刻付帳が添えられていて、何処(どこ)の村が何刻(とき)に受け取り、何刻に何村へ引き渡したということを克明に記しておいて責任の所在を明らかにしておく。しかし礼髭村から白神村への伝達、さらには福島村から知内村のような遠隔地の場合、刻付で急用を要するもの以外は、駅逓から荷駄 馬の往還を利用したものもある。

 有料の人馬の継立は宿場で行ったが、福島も吉岡も名主が旅籠を経営していたので、ここが取り扱った。『戸門治兵衞 旧事記』によれば、この継立は天明八年(一七八八)で福島、松前間四里二四丁三〇間(約一八・一六四キロメ-トル)で、その馬一頭の駄 賃は一六八文四分、軽尻(軽い荷)馬は一一二文、半荷の場合は四六文で、福島から知内までは七里一〇丁二五間(約二八・五四三キロメ-トル)で駄 賃は二六二文三分、軽尻一七五文、半荷一三一文であった。この馬継立に用いる馬は知内村と一の渡りの佐藤甚左衞 門(仁右衞門)の馬が用いられた。『罕有日記』には、知内を発足して福島に向かう道中を








五ツ時(午前八時)前馬にて発途此節雨晴たり宿端より山間に入る原野の如く雜草多し。知内川を右にして行事一里些(いささか)之昇降数処あり、此辺左右柊樹(ひららぎ)多し、又壱里にてハンチヤリ川(圓木船渡し馬は渉す知内河上)半里許にて湯元道坂下道の追分あり(湯元は右山中にあり)又半里ゴバン坂昇降して民屋一宇あり(民屋の辺地味聊(いささか)よろしく畑作をなす)草鞋(わらじ)等売って行人に便にす。此辺楢(なら)、榛(せん)、ブナ等の大木多し、且つ古木は焼枯し伐り倒し、往来近辺山々を焼事夥(おびただ)し、馬夫に問えは、さん候草深けれハ熊羆来て馬を取り喰へ候故に、年々春中草木共に焼払候なり…略…

一之渡驛(知内より四里半)

山間稍(やや)平かにして休泊所壱軒あり、大家にして佐藤仁右衞門といふ昼げす。…略…

家に牡馬七疋畜ふ(此宿より松前まで牡馬を遣ひ、箱館より是迄は牝のみなり、野飼するに牝・牡当を得されば害あるよしなり)。飯おわりて馬に跨り又山道左右林立の地なり拾丁程にて一之渡り嶺或者福島嶺といふ。…略…

降り半里余の間盤曲弐拾餘折あるべし、中に就て絶頂より十三、四折の間嶮峻の至極といふへし、石道素より狭隘(きょうあい)にして輿(こし)も停むる処なり、山々重疂して波涛の如く澗谷陰々として其深きを見ず、馬は戦慄(せんりつ)して四蹄を縮め、人は出汗して眩暈(げんうん)するか如し、嶺上よりは諸山を見、奥州山も望あり、…略…茶屋壱軒甚た粗なり、ここより一渓流を縱横渉ること数十度、四十八瀬といふ。川幅五、六間より乃至拾間左右にして寒冷指を落すが如しと、霖雨(りんう)或は雪解には掲れい成し難く、時々逗留ありと。右之茶屋より一里計之間緩やかなれども坂道にして、左右山間纔わずかに拾弐、参間榛(せん)、楢(なら)、橡(とち)、ブナ、柳樹の巨木覆ひ日光を遮(さえぎ)るか如し。途上ハ四拾八の流れあり、是を茶屋の沢と字す。


とあって、多くの人々は熊害を恐れて、馬子の先導する土産子馬に跨って旅をしたといい、特に茶屋峠から四十八瀬への下りには馬も蹄を縮める程の恐ろしさで、乗る者も眩惑するほどの恐ろしさであったという。



【宿 場】 福島は旅人の宿営地、吉岡は沖ノ口御番所があることによる船の出入で、船宿があった。福島旅籠(はたご)の第一は名主住吉屋辰右衞 門の経営する住吉屋を第一とし、戸門治兵衞、花田六右衞門等も旅宿を経営していた。この旅宿に投宿した前述『罕有(かんゆう)日記』の筆者森一馬は、「此客舍ハ手広く普請も見事に既に(座敷拾五、六疂なり)料理も入念なり」と高く評価している。吉岡村は名主船谷久右衞 門が船宿営業していたほか、ここも多くの旅宿があり、宿泊料一泊二食付で標準は二五〇文であったが、素泊りの木賃宿(きちんやど)は三五文であった。

 一の渡りの松前藩が設けた休泊所については、数回にわたって建て替えられたらしく、常磐井家文書『慶応二年日記』によれば、






四月二十五日

一、一野渡り甚左衞門願ニ付、御本陣普請ニ付、新宅御祈祷。




とあるので、このころ、さらに建て替えられていたことが分かる。