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 寛政三年(一七九一)東蝦夷地を見分すべく船で松前を発った菅江真澄(博学者・秋田居住)は、強い東風(やませ)で白神岬を廻れず、荒谷村(松前町字荒谷)で船から下され、白神峠(吉岡山道ともいう)を徒歩で登ることになった。頂上から折戸村(字松浦)に下る道すがらの記事『えぞのてぶり』のなかに、





松倉が岳、泉源が嶽(大千軒岳)など雲いとふかく、もゝへのやまたちかくろへど、あをうなばらの、をちこちははれたり。そこふかき谷をへだてて、高からぬ 磯山に鳥居の見えたるは祖鮫明神といふ、あらぶる神をうなばらに斎(まつ)る。その緑(もと)は、むかしこゝに大舶のくつがへらんとせしかば、舶長あめにいのりて、かゝるわざはひをのぞき、わが命をわれにたまへ、海の神のいかりならば、そのおほみかみをすゞしめまつり、いやまひ奉らむと、あら波の上に手を拍て、なくぬ かづけば、大なる鰐(わに)の浪の中にあらはれて、海はしゞまにうちなごみて、船人等は、あらしほの辛き心地に磯につきて、まず、折掛といふことをして草引結び、しるべばかりに神を祭(いわ)ひ、のちにを建てけるとなん。このごろ、しほ風にふかれて、みやしろの海に落てしかば、浦人どもの作り奉るといふ。やゝここをのぼり得て茶亭(ちゃや)峠といふ名あり。




と記録された光景は、白神峠の頂上付近のことを記したものであろう。この頂上から鞍部を横切ったところに、峠の地蔵様があり、その向いには小さなお茶屋があり、旅人は休息してお茶を飲み、駄 菓子を喰べた処である。これから折戸村にかけては急な下りになっていて、礼髭村、吉岡村、福島村、矢越岬が海の中に突き出ているように眺望ができ、またこの街道の右前方に見える切り断った岩肌のなかに神社の鳥居がはっきり見える。

 この神社が白神神社、松浦神社、祖鮫明神といわれ、国道二二八号線のため寸断された明神岬の山側に建っている神社である。この神社の祭神は猿田毘古神で、寛文七年(一六六七)に創建されている。また、海の生産神として祖鮫(そごう)神が祀られ、祖鮫神社とも呼ばれて付近の住民の篤い信仰を受けていた神社で、白神神社と言われる所以(ゆえん)は白神岬を中心とした付近村々の守護神であるという意味も含まれている。

 この祖鮫神は菅江真澄の『えぞのてぶり』で見るように鰐(わに)であるとしているが、往時は鰐を鮫としていたもので、鮫が沖合を通 るとニシンやイワシ等は皆これを恐れて陸岸に逃れようと、近づいてくるので、漁師は網を張ってこれを獲る。もし鮫が来なければ、これらの魚は沖を通 って村には魚が来ないと考えられていた。したがって鮫は村に大漁をもたらす神様であると考えられていたので、報謝と豊漁祈願の神として住民から篤い信仰を受けた神様である。北海道内では今一つ祖鮫を祀っている神社があり、石狩弁財天社(石狩弁天社)にも祖鮫が祀られている。