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第一節 幕末の松前藩

(五) 松前崇広の老中入閣

 文久三年(一八六三)四月二十八日江戸参勤中の松前家第十七世藩主伊豆守崇広に対して、幕閣より即刻登城すべき命があり、登城すると、芙蓉(ふよう)の間に於て老中筆頭松平豊前守信篤(亀山城主、五万石)が、将軍家茂の令旨をもって寺社奉行に任ずることを伝えた。寺社奉行は幕府三奉行の一職で、神道方あるいは坊主、寺社の統制管理に当り、さらに江戸町奉行、勘定奉行と共に公事(くじ)評定に加わる役柄で、他奉行は旗本から任命されるが、寺社奉行は大名のなかから選出され、将来の老中候補として幕政を勉学する場でもあったので、外様大名の小藩松前家としては誠に名誉なことであり、崇広にとっては異例の出世であった。

 崇広がこのように幕閣入をした要因については、崇広は二十一歳で藩主になるまで、江戸藩邸にあって捨扶持を貰って生活し、自ら田楽(でんがく)(おでんの一種)を造って食べる等極めて世情に通 じていたばかりでなく、国内留学を終えて帰国した家臣があれば、必ず近侍としてその者の修学した内容を吸収し、また、多くの学者から蘭学や英語、文学、兵学さらには西洋事情、西洋科学等を学んでいた。その上で国内情勢を分析していたので、大名中では西洋通 として高い評価を受けていた。したがって幕末の混迷を続ける幕府としては、このような大名の入閣が必要であったと考えられている。

 崇広は松前藩上屋敷を本所邸と定め、寺社方を遠藤又左衞門、公用人に柴田浦人を任命してその業務に当り、同年五月六日には三職協議し、「寺・町・勘定三奉行、連書シテ外交拒絶・三港閉鎖ノ断行ハ、皇国ノ崩壊ナル所以ヲ論ジ、大将軍ノ職ヲ辞スベキヲ幕府ニ建言ス」(『維新史料綱要巻四』)と、幕府の攘夷強行体制に反対をする等、開港論者としての片鱗をうかがわせている。

 外様大名でしかも最北の小大名からの寺社奉行への就任は、大名間交際の拡大、江戸藩邸の人員増強等、多大な費用を要したので、参勤交代の旅費も御用金や借上金で賄っていた藩としては容易ではなく、両浜商人(近江)や場所請負人、株仲間に献金を呼び掛け、約五、七三〇両の献金を集めているが、それでもこの栄職に対しての住民の負担は大きかった。

 家臣の中でも「外様大名である松前家が今の時期になって幕府の爲に働かなければ、ならないのか」と反対する者が多く、また、江戸日本橋に崇広および一橋家士平岡圓四郎の二人を弾劾しようという立札が立ち、開明藩主崇広の身に危険の迫ったこともあって、崇広は七月幕府に辞任を求め、七月十三日老中板倉周防守指令によって退職が認められ、在任僅か二か月余で元席の柳之間詰大名となった。

 この年十一月二十日夜大沢村櫃(ひつ)の下にイギリスの商船エゲリア号が遭難するという事件が発生した。この年二月には孝明天皇より、幕府の外国船打払い(攘夷)の時期決定が問われ、幕府はその期日を五月一日と定め、八月には攘夷親征の詔勅がでるなど、我が国近海に侵入する外国船との間は正に一発触発の情勢下にあった。この危機の十一月二十日夜の午後八時頃(戌刻過ぎ)大沢村字櫃の下の岩礁 にイギリス商船エゲリア号が乗り上げた。この状況を見た大沢村名主佐々木栄吉は寺社町奉行所に急報すると共に、村民を総動員して船長モウーラほか十八名(計十九名)の全員を救助した。

 寺社町奉行所からは飛内策馬奉行、工藤長善町吟味役、駒木根篤兵衞勘定吟味役らが急拠駆け付け、難破船の見える場所に救難小屋を建てて収容し、食料、衣類等を給与する等手厚い介護を行った。また、各国の箱館駐在領事達や、箱館奉行揮下の定役等も船で大沢に来てその処理に当った。このような時勢で起きた遭難事件であったのに対し、松前藩家臣達は問題を的確に処理し、なお、遊歩地域外である松前城下の寺社を見学させる等適切に対応したが、それに比べ、箱館奉行所から派遣された役人は権勢を笠に着て、尊大で無能であるとイギリスの箱館駐在領事ワイスは報告し、横浜駐在の領事アールコックも、この松前藩の行動を高く評価している。

 遭難者一行は、同船に積んであったバッテイラ(ボート)二艘に分乗して揆送(かいおくり)することになり、一月下旬箱館に向かったが、『工藤長善履歴書』によると、








正月下旬彼レ十九人所有ノバッテイラ二艘へ、荷物モ積入レ揆送リ以テ大沢出航セシカ、揆送リトナレハ水夫疲労途中落舟モ難計議題ヲ起セリ、因(よっ)テ小生附属両三名ト共ニ福島村ニテ出張、同所ヨリ海岸支村へ使番差立、捜索セシメ落船セシ模様曽(かつ)テ無之、彼レ大沢出航当日ノ正午頃、矢越岬沖乘通 シタルヲ漁師共沖合ニテ見掛ケタル旨、使番申出其夜福島一泊翌日帰藩復命シ、本藩ニ於テハ開港場ニ無之故ニ悉皆(しっかい)救助セラレタルモノナシ、合計三千円(両)ヨ之臨事費ヲ要セリト櫃ノ下出張会計吏ノ説ナリ。

同年四月ニ至リ前年冬分ヨリ本年正月ニ至リ、永ク櫃ノ下タ出張勤労ヲ賞セラレ、御章服及銀拾五枚下賜セラレ拜受ス。




とあって松前藩としても、この問題を大きく取り扱っていたことが分かる。

 このような人命尊重の立場から手厚い介護を行った松前藩主崇広の行為は、外国使臣に深い感銘を与え、特に当事者であるイギリスは領事アールコックの報告によって、元治元年(一八六四)五月イギリス国ビクトリア女帝は、松前崇広に感謝の意を込めて、イギリス皇帝より松前崇広に贈る旨を彫り込み、松前家の定紋丸に割菱紋入の金側懐中時計が贈られ、崇広は死没するまでこの時計を肌身離さず大切にしていた。



【崇広の入閣】 元治元年六月崇広は帰国挨拶のため老中酒井雅楽頭(うたのかみ)忠績(ただもり)(姫路城主、一五万石)邸に参向したところ、幕命として帰国をしばらく延期するよう下命があった。この時点で幕府は政事総裁松平春獄以下の閣老が、その威信を貫き通 すことが出来ず、水野和泉守(いずみのかみ)、牧野備前守の二人を除き他は辞任を申し出、その後釜をどうするか頭を痛めていたときであった。そのため老中には諸藩連合あるいは外国事情に精通 していて、一定見を持つ諸侯から選ぶ必要があり、崇広の将軍家茂が親征して長州を降し、幕府自強の策を構ずべきであるという持論が、崇広の老中入閣候補とする最大の理由であった。この考えは尾張侯をはじめ藤堂和泉守、牧野備前守等が強く支持し、六月の政変で老中となった阿部豊後守正外(まさと)(奥州白河、一〇万石)も崇広と意見の一致を見、豊後守の薦(すす)めもあり、同年七月七日には老中格、海陸軍総奉行に任じ、蝦夷地旧領のうち乙部村から熊石村までの西在八か村が松前家に還付された。

 幕閣老中および老中格は、従来徳川譜代大名で五万石から一〇万石程度で、特に徳川家の覚目出度い大名中から抜擢(ばってき)されていたから、最果 ての外様の小大名から登用されるなど、全く思いのかけなかったことで、彼が諸大名中でいかに勝れていたかを知ることができる。

 幕閣入した崇広は江戸城内常盤橋の前老中有馬道順(越前丸岡城主、五万石)の官邸を引継ぎ、ここを役宅として政務に入り、公用人に島田興、遠藤又左衞 門、柴田弥太郎が当り、案詞奉行には明石遊亀尾、島田能人、工藤長善、厚谷清が任命されて老中業務体制を整え、前年来の閣老経験者である牧野備前守忠恭(たか)(越後長岡藩主、七万四、〇〇〇石)の指導を受けた。

 老中格は老中の発する奉書に加判、自書はしないが、他業務は何ら変るものではない。崇広は最も気の合った阿部豊後守と協議を進め、軍艦奉行勝安房守、講武所奉行遠藤但馬守、久貝養翠(ようすい)、歩兵奉行下曽根甲斐守、陸軍奉行竹内遠江守ら意中の旗本を指揮下に収めて、幕府直轄軍の再編制と拡充に努めた。

 同年十一月に従四位四品に敍せられ、加判老中となり、専ら長州征討のことに当った。この年八月将軍家茂(いえもち)が上坂して征討の総指揮をとることになっていたが、幕府財力の低下や種々の問題があって発向できず、広島に出征中の総将尾張中納言が中国地方諸藩と合力して長州を攻めるも、戦況進まず、幕府より督戦の意を以って崇広に出張を命じた。十一月二十三日幕府の陸軍諸隊三六四人と溝口陸軍奉行、駒井大目付、向山目付等を従えた崇広は、十二月十五日入京した。その間に第一回の長州征伐は十一月に広島に於て総将(総督)徳川慶(よし)勝と、長州支族吉川経幹との間で長州藩主毛利父子の伏罪書によって一応の落着きを見ていた。崇広に課せられたもう一つの問題は、将軍後見職徳川慶喜を江戸に連れ帰ることであった。その理由は、「また江戸と京都に分裂している幕府勢力を江戸に集中し、東西の意見の対立を統一しようと試み……老中松前崇広を上京させて、一橋慶喜を江戸に帰らせようとした。しかし、それは成功せず、かえって諸方面 から当面する諸問題解決のため将軍が上京するよう督促された」(『日本の歴史19』、小西四郎筆「開国と攘夷」中公文庫)。

 崇広はこれらの措置の急であることを考え、急拠帰幕することにし、十二月二十四日京都を発し、元治二年一月八日(四月七日慶応と改元)帰府復命したが、これに対し老中水野和泉守(山形城主、五万石)は、京都にあって幕政に批判的な一橋慶喜と結んでいて、崇広を難詰したので、崇広は幕閣の腑甲斐(ふがい)なさを論じ、席をけって退出し、翌日より二月中旬まで四〇日余病気引籠りと称して出仕しなかった。

 二月中旬月番老中より押して出勤すべき書簡があり登城出仕、四月は月番で東照宮二五〇年祭等があり、また、月番のため各藩の使者が詰めかけ、これに昼から夜まで酒饌付膳部、茶菓等を差し出し、四月ひと月で上屋敷の経費は三、〇〇〇両に上ったといわれ、さらに老中守護、藩邸警備等で、松前から家臣の派遣、さらに新規召抱え等で出費も多く、国元の家老達はこの資金捻出のため、各村や町人達に呼びかけ献金集めに躍起となっていた。福島町内の旧家等でよく松前家々紋入の大盃盞を見掛けることがあるが、これは崇広の老中入閣資金寄付協力者に贈られたものである。



【長州征伐と崇広】 幕府は四月五日将軍家茂の発進に付随従老中を本庄伯耆(ほうきの)守秀豊(丹後宮津藩主、七万石)および阿部豊後守、松前伊豆守の三名に命じた。本庄伯耆守は征討に対する各大名との連携、豊後守は外交と京都、大坂間の連絡、伊豆守は将軍守護とそれぞれの業務を分担した。連絡を受けた松前藩は家臣二〇〇名を急據江戸に派遣し、在府兵二〇〇名と合して四〇〇名の松前藩行旅出陣軍を編成し、松前右京が指揮をとった。

 五月十六日将軍家茂は諸兵を率いて江戸城を発し、崇広もこの行に扈従(こじゅう)して十七日発程、幕府歩兵一、〇〇〇名を指揮して堂々の行進を重ね、この行列は、「総計十万三千人余、将軍家旅泊セル駅所ヨリ先五里、跡五里拾里間宿泊所木小屋雜倉(ぞうくら)ニ至ルマテ明キ家ハヨシナク、旗本衆ノ旅宿割ナトハ六丁敷ヘ八人詰メノ由」(『工藤長善履歴書』)という状況であった。閏五月二十二日入京した将軍家茂は崇広のみを連れ参内し、長州再征の事由を奏上ののち、二十六日大坂城へ入った。

 大坂は幕藩兵で充満し、老中の崇広ですら宿舎がなく、谷町三橋楼という料理店を旅宿に借りるという状況で、これでは老中の体面 を汚すと再三交渉し、大坂城代牧野備中守の交代屋敷を借りて政務を執った。将軍家茂の大坂城での政務は、孝明天皇から宣下された攘夷決行の決断と、第二次長州征伐の発進、さらには英国、米国、仏国、和蘭(おらんだ)国の四か国による兵庫開港日限の切迫に対する措置等の緊急の用務が山積していた。

 下坂した三老中のうち、特に阿部豊後守と松前伊豆守の二人は、幕臣旗本の絶対の信頼を得ており、阿部は幕権過信派(『日本の歴史19』小西四郎筆「開国と攘夷」中公文庫)といわれ、松前は幕権拡張論者(石井孝筆『明治維新の国際的環境』三九二頁)として、長州征伐で各大名が出兵している機に斜陽化している幕府の権威を回復しようとした。それに対し京都に在る将軍後見職一橋慶喜(よしのぶ)と、京都守護職松平肥後守容保(かたもり)(会津藩主)、京都所司代松平越中守定敬(さだあき)(桑名藩主)の兄弟は京都と密着した攘夷推進派であり、事毎に対立を重ねていた。一方長州藩の藩政は開明派によって占められ、着実に軍事力を増強しつつ、富国政策を進めていた。

 その間閣老としての崇広は将軍守護という立場もあって、家茂の信任が極めて厚く、夜間親しく人払いをして、将軍と時局の推移について話し合いを続け、正に懐刀的存在となっており、将軍からは着衣や膳部を賜わったり、御猪口の御酌を頂戴したり、また、崇広からは自分愛用の遠目鏡(とうめがね)を献上する等、その信頼は予想以上のものがあった。

 九月十二日崇広は海陸軍総裁となって、直接長州征伐の大権を握って出動の準備をしていたが、同十六日四か国(英・仏・米・蘭)の軍艦が摂海に進入して、兵庫(神戸)および大坂の開港を要求し、英公使パークスは速急に条約の勅許を得られなければ、直ちに上陸して京都に至って談判すると強硬な申し入れをした。京都が夷敵に蹂(じゅう)りんされることは幕府の面 目は丸潰れであるので、何とかこれを阻止することになり、家茂の命によりその談判を阿部豊後守と松前伊豆守が担当することになった。

 同二十三日豊後守は兵庫に至ってパークス公使と会見し、二十六日までの猶豫を得て帰坂し、崇広は京都との間を往復して朝廷との間の周旋をしていたが、最終的にこの問題はあくまで外交問題で、幕府行政の裁量 権の内であって勅許の必要はないとし、幕府の権威を示すためにも兵庫開港をすべきである、という将軍家茂の裁可を取り付け、条約調印をすることになった。これに対し下坂した徳川慶喜、松平肥後守、松平越中守らは京都公家を煽(せん)動して、兵庫の開港を強行した場合、攘夷派の蜂起は必死であり、条約調印の期限を延しておいて、その間に勅許を受くべきであると主張した。

 二十六日早朝「幕府首脳一同登城し、将軍臨席のもとに会議が開かれた。慶喜は、なお外国側を説得して決答の期日を延期すべきことを主張し、阿部と松前は、すでに将軍の同意を得ていることだから、許可のほかないとして依然譲らず、老中格小笠原長行(唐津藩主、六万石長子)だけが慶喜の意見に同調した。かくて議論は分裂し」(石井孝著増訂『明治維新の国際的環境』三九五頁)、「その折衷(せっちゅう)案として慶喜と同心の若年寄立花出雲守種恭(三池、一万石)を神戸に派遣し、条約日限の延期交渉に当らせ、若干の日限の延長を外国使臣が認めた。そのため両老中は見通 しを誤ったと責任を追求され、自ら差扣えを願わざるをえないはめに陥った」(同前史料三九八頁)。しかし両老中は依然として出仕しているのは不届であるとし、二十九日慶喜・容保・定敬の三人は参内してその状況を説明し、両老中の処分について朝議が開かれ、両人は改易(領地の召上げ)、切腹の極刑に処することが決まったが、あわてた慶喜は今度は助命嘆願に廻り、最終的に官位 剥奪、国元謹慎を決定した。将軍家茂の最も信頼を受け、幕権の擁護のため渾身の努力をしてきた阿部、松前の両閣老は徳川家一門によって、栄光の座から引きずり下された。

 十月一日この命を受けた崇広は、三日大坂を発足し帰国の途に就くとき、将軍家茂上書し、このような難局に当り、天子の命令だからといって、皇国の事を考えるなら其侭お請することなく、徳川家康公以来の徳川家のことも考慮すべきで、この様な場合断乎として将軍職を辞め筋を通 すべきであると、強い調子で政情を批判し帰国の途についた。

 崇広は十月十八日江戸に着き、十一月十五日家老松前右京以下一一一名の家臣に守られて北上、十二月十三日三厩着、日和待の上慶応二年一月八日松前に帰着した。松前城内での崇広は月代(さかやき)を剃らず、ひたすら謹慎の意を表していたが、同年四月二十六日熱病を患い(一説には急性腹膜炎とも言われる)三十八歳の若さで急逝し、一部には毒殺説も流れる程であった。それにしても北溟(ほくめい)の英主と謳(うた)われ、松前藩の名を天下に知らしめた崇広の死は、あまりにはかないものであった。