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第三節 沿岸警備と砲台

 徳川幕政期も末期に近い天保年間(一八三〇~四三)になると、北海道近海は外国船の出没が多く、沿岸警備が重要な課題となってきた。世界の鯨漁業はノールウェーを中心とした北氷洋であったが、この時期には資源が枯渇し、新漁場を求めて各国の捕鯨船が捜していた。すると蝦夷地近海には多くの鯨のいることが分かり、各国の捕鯨船が殺到して来た。これらの捕鯨船は薪水、食糧の補給をしなければならず、密かに蝦夷地の海岸に着いて薪水の補給をしていた。

 幕府は寛永十六年(一六三九)以降国を鎖(とざ)し対外貿易は開港地長崎でオランダ以外は認めなかった。さらに国禁を冒して入り込んで来る船は、理由のいかんを問わず打払うよう幕府から厳命を受けていた時でもあり、国防上からの見地からしても沿岸防備のため、砲台の築設が必要であった。そのため船舶の出入の多い吉岡と、仮泊地の福島沖を守るため両地に砲台が築かれた。

 福島砲台(御台場)は、福島神明社神主笹井家の日記によれば、天保三年(一八三二)九月には御台場掛りが勤務し、笹井家に下宿をしていたことが記されているので、この砲台は福島神明社前の海岸に対する崖上にあった事が考えられるが、砲台の規模、大砲の口径等を知る史料は残されていない。ただこの笹井家の日記によれば、同年九月には星野利兵衞 、十月工藤忠太で、工藤は十一月一日に勤番を引払い松前に帰っている。翌天保四年の日記では、御台場詰として三月十五日より四月まで森作右衞 門、四月より五月まで工藤治兵衞、五月より六月まで岡儀八、六月より七月星野利兵衞 、七月二十二日より小杉六右衞門が在勤し、この年若殿様(第十五世良広)が砲台を巡視している。これら在勤の藩士は、士分の者であるので、二名程度の足軽も帯同してきたと思われる。

 一方吉岡砲台については天保十五年(一八四四)の『松前藩警備状況』(北海道史)によれば、








吉岡村台場 三百目筒一挺、百五十目筒一挺。

 大筒掛士一騎、徒士二人、足軽二人


で士一騎と、徒士、足軽が二人ずつ計五人が吉岡村に常駐していたことが分かる。

 この砲台の場所、規模については、函館市中島良信家所蔵の『松前家史料』のなかに「吉岡村御台場見取図」がある。その場所は吉岡八幡神社東側の崖上と推定され、その説明では、「砲門より海岸水迄弐拾七間余(四八・八メートル)、海岸水上より亀甲坂上までは高サ拾壱間四尺余(二〇・六メートル)」で、この亀甲坂を登り詰めたところに入口門があり、この東・西・北の三面 は幅五尺余、足高一丈余の長方形の土塁となっており、土塁内側は拾間二尺余の正方形で、その南面 し海に向かう砲座は、土手足四間三尺余、中央に物見台を設け、その両側に二間三尺余の砲台が設けられていた。当初砲座二か所で大砲二門の砲台であったと思われるが、安政三~四年(一八六七~八)松前藩は大沢村字根森に大砲鋳造所を設け、新鋳の大砲を製造したほか、旧式砲も性能のよい新式砲に改鋳したと考えられ、幕末には三百匁砲三門が配備されていた。この天保十五年頃の吉岡砲台の築設によって、福島神明社前の福島砲台は廃止となった。

 明治元年の福島の戦争では福島神明社前の砲台と、徳川脱走軍軍艦蟠龍、回天との間で激しい砲撃戦を展開したが、この砲台は出兵した松前藩兵が臨時に設けた砲台で、三百匁砲四門であった。また、茶屋峠上に仮設の砲台を設け、ここに備えた大砲二門は、吉岡砲台の備砲を運搬したものである。

 このような外国捕鯨船の出没を警戒するなかで、吉岡沖之口役所の収税倉庫が、一時外国人抑留者の収容所となったことがある。北アメリカの捕鯨船ライテント号(三二人乗組)が樺太(唐太-サガレン州)東海岸ヲロタという地の沖に仮泊し、嘉永二年(一八四九)六月三日乗組員一八名が上陸して薪水の補給をしていたが、その内三名が森中に踏み迷い、一行は帰船出帆し、三名は松前藩勤番兵に救助された。この三名の名は、













北アメリカ洲ネウヨルクゼームスフェルリス二十三歳
 デニルウィルソン二十六歳
 ジョルヂロウワルド二十三歳




というが、彼らの持ち物は、白雲斉筒袖、木綿筒袖、紺雲斉股引(ももひき)、丸頭巾、手拭、紺足袋、団扇(うちわ)、鏡、櫛、きせる、小刀、化粧筆を持っているので、森林に迷い込んだものではなく、覚悟の棄船脱走であったと考えられるが、救助した家臣も方途なく、抑留者としてこれを松前に送致した。

 しかし、このような外国人抑留者があった場合、直接松前城下にこの者達を入れると、城下の展望や防禦が丸見えとなってしまうので、これらの者を吉岡村に抑留した。『北門史綱 巻之壱』にも、八月十六日の項として、「樺太島漂到ノ亜墨利加国人此年六月廿四日ノ漂着ニ係ル三員ヲ航致シテ東部吉岡港ニ着航ス市北傳治沢ニ拘置シ、以テ幕府ノ命ヲ俟ツ」とある。

 吉岡の拘置所に当てられた場所は吉岡沖之口番所の通り庭倉庫(通関手続倉)であったろうと考えられる。その後松前城下の中心から東へ一キロメートルの傳知沢に藩の米倉が連立しており、この倉を改装して抑留者を吉岡から移しているが、吉岡での拘置がどの位 の日数であったかは不明である。

 翌嘉永三年五月五日藩は物頭田村胤保(たねやす)、目付平田貞昭等をもって傳知沢拘置のアメリカ人三名を護送しているが、長崎へ到着したのは七月二日であり、長崎奉行の報告『通 航一覧続輯 巻之百二十一』によれば、介添警固の松前藩兵は物頭田村逸平次、目付平田五左衞 門、組士鈴木藤左衞門、天野七郎、徒士目付谷や梯はし啓三、徒士松崎龍蔵、高橋左仲太、医師菊地立郎、足軽小頭両人、足軽八人と併せて上下三五人にも達し、藩は多大の出費を要していた。