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第二節 福島村番所の設置と機能

 福島村に松前藩の関係する建物が建設されたのは、千軒金山番所は別 として、寛保三年(一七四三)を嚆矢(こうし)としている。その建物とは松前家第十一世藩主邦広が「御仮家屋敷」として建造したもので『戸門治兵衞 旧事記』の記録には、「館古山、是ハ邦広公十一代御代仮家屋敷御気附普請地拵(こしらえ)、寛保三年四月八日逝去、八日様といふ。」とある。松前藩主一族家系を記した『松前家記』にも「寛保三年癸亥閏四月八日邦広卒ス、年三十九先塋(せいえい)ノ例(そば)ニ葬ル」とあるが、福島の口碑のなかでは、この御仮家の建物が完成して八日目に御殿様が逝去したので、八日様と呼ばれていたと言われている。

 この御仮家(御狩屋か)の建っていた場所について、館古山の地名が出てくる。この館古とは現在の字福島地内館古山麓野の館古と呼ばれている地域とは若干異なり、福島大神宮のある鏡山、川濯神社、稲荷神社のある稲荷山の前麓と坊主沢との間の通 称上町と称せられる旧岡本医院跡地付近が、その場所であろうと考えられる。

 なぜ福島にこのような藩主の別業(別荘)を建築したかというと、特に十一世藩主邦広は領内の新田開発に意を注いでいたので、福島を数度検分して福島川流域の造田開発をしようとし、藩主自ら率先してこれに当ろうとしても適当な宿所がなかったからである。しかし、その宿願を達することなく、三十九歳の若さで逝去したものである。

 この御仮家建物は、その後使用されることなく放置されていたようであるが、五十一年を経た寛政六年(一七九四-甲寅)邦広の五男で永らく藩執政を勤めた松前監物(けんもつ)広長が、藩から隠居所として借り受け、大改修してここに住まい「清音館」と名付け、風花日月を賞でていて、福島村を讃美した『覆甕草』中の清音館記もここで作詩されたものである。

 福島村館古に八年間住まっていた松前広長は六十五歳で享和元年(一八〇一)五月十日に没し、松前曹洞宗法源寺村上松前家墓地に葬られた。その後、この建物については『戸門治兵衞 旧事記』では、








享和三年(一八〇三)

福島村御勤番所家造立地、古来村役屋地上町表口十間四方一尺五寸、裏行十六間ニ御座候。御代々御巡見様御宿之節上様御普請被附相勤罷在候。猶又名主役之者家宜勤り兼候節村中勿寄家作仕爲罷在候。




となっていて、藩主が福島で宿泊の場合や、御巡見使が検分巡行の場合に宿舎として利用した。また、福島村の名主を選ぶ場合は自宅を村役場と役宅とにしていたので、旅籠屋(はたごや)等の大家主でなければ名主となれなかった。したがって、戸門治兵衞 家や住吉辰右衞門、花田六右衞門、原田治五右衞門、金屋助三郎家のような代々村役となる家々は、漁業を兼ねて旅籠屋をも経営し、これを役宅として人馬逓送等の業務も行っていた。しかし、福島村にはこのような藩の建物が町の中心部に空家となっていたので、これを修理して村会所としたことが分かる。

 これより少し前の寛政元年(一七八九)に発生した国後(くなしり)・目梨(めなし)の蝦夷乱に、領内警備のため、福島村に番所を取り建て、慕舞腰掛岩前と吉田橋内側に大門を建て、堺弥六、新井田瀬平様(兵衞 か)が御役人として出張している。その後は享和三年(一八〇三)の前掲史料では、「三月牧村忠左衞 門様、下役奥村久太郎初而当村御勤番。上ケ月代り新井田源左衞門様、下役工藤忠太。右受代蠣崎周七様、下役田村半平十一月中ニ而御引取後下ル。」とあって、三月から十一月までの間に三か月交代で藩士が番所に詰めており、外国船の来航監視を主業務としていたようであるが、この番所は前記の建物が利用されたようである。

 笹井家(現常磐井家)の『天保三年日記』を見ると、福島神明社境内に御台場(砲台)があり、この掛りの者が、神主笹井家に下宿していたが、この年九月二十三日笹井治部正が死亡したので、別 家の原田、三国屋安次郎宅に宿を頼み宿替を認められており、福島番所の役人と御台場掛とは異なっていたと思われる。

 また、宮歌村『嘉永元年(一八四八)御用物御用状継送扣留』によれば、福島村御役所詰の役人には村井徳五郎、柴田半二郎、成田庄蔵の三名が駐在していた。

 さらに明治元年(一八六八)十月二十七日徳川脱走軍の襲来を茶屋峠から福島村で防ぐべく出兵した松前藩兵は、城代蠣崎民部を中心として法界寺を本陣とし、蠣崎民部の宿舎としていたが、十一月二日の決戦で法界寺は焼失している。